筆者の思想

「いじめ」「登校拒否」大人を信用できない子供たち

人間社会で言う義務教育の定義はなんだろうか?以前、どこかの記事でも書いた覚えがあるが、あえて今一度こちらで述べるとするならば、義務教育は有機野菜に農薬を撒くようなものだと個人的に考えている。どういうことかと言うと、野菜は人に渡りやすくするように虫を寄せ付けず、体裁を整えるために農薬を撒く。こと人間社会においても同じで、義務教育で”都合の良い働き蟻”になるよう体裁を整えられ社会に送り出されるからだ。

数日前、とあるニュース記事にて”いじめ問題”が取り上げられているのを読んだ。どの学校でも、そういったいじめに対して正義を持って訴えかける生徒はいるものだ。しかし、学校側がまともに取り合ってくれず、結果的に、いじめを受けていた当人は自ら命を絶ってしまうという悲惨な結末を迎えてしまう。この記事では割愛させてもらうが、教員の返答を見ると沸々と怒りが込み上げてくる。学ぶべきことは、数学より、国語より、もっと大事なことがあるのではないだろうか。国にとっての都合の良い社交性ばかり教え込むのではなく、人間としての心のかよった最低限の道徳を学ぶことこそ、一人でも多くの命を救い幸せにする道へとつながるのではないか。と、元登校拒否をしていた身として思う。

僕ら大人は、若い世代の指針にならなければならない。なぜなら、子供や赤ん坊は、否が応でも親や教員、先輩の姿でしか模範的な教養を得られないからだ。特に子供に選択肢は少ない。というよりも、情報に疎いため、選択肢の幅が広げにくい。ゆえに疑う力を養えず、間違った情報であっても安易に信じ込んでしまうのだ。偏った正義感を日常的にインプットし続ければ、その若者は偏った正義こそが真の正義だと旗を掲げ上げるだろう。俗にいう悪い大人たちは、そういった情報弱者をターゲットにタチの悪い商売を延々と繰り返している。

生徒のSOSを無視する教員たちは、いったいどういう動機で先生という役職に就いたのだろうか。子供たちのためか。はたまた自分たちのキャリアのためか。若き世代の勇気ある正義や助けの声を無視する教師たちの行為は、患者や老人たちから隠れるように事務所に引き篭もる職務放棄した看護師たちと同じようなものだ。つまり、自分のためだけに働いているだけなのだ。

そんな大人たちの下でしか学ぶことができなかった子たちが可哀想で仕方がない。学校は社交性を学ぶ場でもあるが、わざわざ厳しい環境を作り上げる必要性もない。何がダメで、何が良いことなのかを徹底的に示してあげることが大事だ。

幸い、僕の学生時代は家族や教員、他味方が多かったためなんとか生き残ることができたが、それでも、いじめは辛かった。今からあの時代に戻れと言われれば、僕は全力で拒絶するだろう。人は幸せになるために生まれてきたのだ。どのようにすれば生徒たちが幸福になれるのかを考えてほしい。生徒たちがどんな想いでSOSを発信しているのか、真剣に向き合ってほしいと切に願う。

これからという年齢で、大人を信用できなくなっている若者たちがいることを、重く捉えていただきたい。

子供たちが安心して笑顔で暮らせるスキルを教えることこそ、僕ら大人に課せられた"義務"なのだから。

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