広告 筆者の思想

お寿司のシャリの量が多すぎる件について

シャリの多さに疑問を抱き続け、数年が経った。

人間用に外観が整えられた色とりどりの海鮮物。艶やかな張りと食感。人は何に期待して寿司屋に足を運ぶのか。間違いなく、僕らは豊かな魚介の味わいを求めている。まさかシャリをメインディッシュと捉えている人はいないだろう(例外もあるかもしれないが)。

海の幸はナマモノだ。鮮度が命である食材を顧客に提供する術は並大抵のものではない。放っておけば、腐って価値を失ってしまう。商品として成立させるには、瞬足で客の口に入るよう仕掛けなければならない。それは、情報を光の速度で送受信できるインターネットとよく似ている。動作が遅くなると、誰だってイライラするものだ。

如何に速く、美味しく届けられるか。探究と追及を重ね、今日我々が食事として楽しんでいる回転寿司が生まれた。長年、血と汗と涙を流した職人たちの努力の結晶である。昨今では、「回転しない回転寿司」も誕生しているそうだ。文面を見ると真正面から矛盾している宣伝文句だが、キャッチコピーは時に矛盾が醍醐味になることもある。ジェットコースターのような乗り物に乗って、握りたての寿司が届くらしい。

話を戻すが、僕はシャリの多さにほとほと愛想が尽きている。

魚の味を楽しみたくて行っているにも関わらず、シャリによってネタの味が負け、満腹中枢がすぐに満たされてしまうからだ。収益的な面を考慮しても、客にはたくさん食べて帰ってほしいと考えるのが普通である。ならばシャリを少なめにし、できるだけ多くのネタを楽しめた方が良いではないか。僕の知っている中で、シャリの量を減らせる店舗は今のところくら寿司しか知らない。

シャリの美味しさを知ってほしいのか。魚の味を楽しんでほしいのか。早い、安い、美味いを謳うのであれば、もっと庶民に寄り添ったバランスを整えてほしいと切に願う。

一皿に二貫という決まりも謎だ。一皿一貫で50円にすれば、これだけでも随分な需要と供給が成立する。庶民により親しみを深めてもらうために、シャリの量を選べる他、50円で一貫のみ食べられるシステムを導入すれば、糖質制限をしている僕ですらドカ食いも間違いなしだろう。

しかし、いまだ庶民の願望は行き渡っていない。僕のような人間でも思いつくアイデアは大抵、既に使われているのが世の常だ。実現に至っていないのは、何らかの理由があるからだろう。

ちなみに、さっきから口うるさく話しているが、僕は寿司マニアでもなければ寿司の歴史も知らない。今回の記事も、下調べなしに感じたまま執筆している。これも感受性を鍛える訓練の一環だ。なので、一部の愛好家からすれば不愉快な記事になっているかもしれないが、いちストーリーテラーの愉快な喜劇だと思って気軽に読んでもらえたら嬉しい。我ながら、自分勝手も甚だしいが。

シャリの量は「厳選されたネタをできるだけ温存するための処置」という素人ながらの推測がある。

世界は不況続きだ。漁の世界も大変厳しい状況が続いていると聞く。取れ高の少ない漁業界において、ネタは貴重な代物。回転寿司だけでなく、庶民が手を出しづらい回らない寿司屋もある。おまけにファミリーレストランやホテルでも寿司は提供されている(専門店ではないため味はかなり劣るが)。ネタのクラスと各店舗のレベルを見て、分配も考慮しなければならない。

要するに、新鮮なネタには限りがあり、振る舞えるだけの十分な数がないのだ

人類は、文明の発達によって自然環境を犠牲にし続けてきた。エゴによって海洋汚染エリアを拡大してしまったのだ。人は食べたものでできることと同じで、汚れた海で育つ魚も相応の価値となってしまう。新鮮なネタを供給できないことを知った寿司職人たちは厳しい状況へと追いやられた。結果、苦肉の策を強いられ、貴重なネタをより良き環境へと循環させようと考えた。ネタを節約するため、シャリの量を増やして満腹感を促進させようと思い至ったわけだ。

僕らの置かれている寿司環境の現実は、地球からのしっぺ返しだった。故に、今日に至るまで不満の種になっていたシャリの多さは自業自得なのだ。悲しいことだが、人間はかくも愚かな生き物であると考えを改め、教訓として胸に刻み込む他ないだろう。僕らが世に抱いている不平不満は、自身の行いによって招かれるもの。因果応報とはこのことだ。

どれほど厳しい状況であることを考慮しても、顧客の願いを出来る限り聞き届けるのも職人の仕事。寿司を食べる側としては、やはり心を鬼にせねばならない時もある。寿司業界の皆様。どうか頑張って、シャリの量と一皿一貫50円の悲願を達成してほしい。胃袋が豊かになれば、人は優しい生き物になれるのだ。

時代の変化には必ず犠牲がつきものだし、気が遠くなるほど時間がかかるものだ。心を鬼にするとは言ったものの、僕も薄情な人間に成り下がったわけではない。寿司を食べられるだけ有り難み、今ある幸せを噛み締めようと思う次第だ。そもそもにおいて、高級だった寿司を気軽に食べられる時代になったことに感謝せねばならない。シャリの量ひとつで文句を言っていること自体が贅沢なのだ(どの口が言うのか)。米も魚も、地球が育んでくれた貴重な命。今後も大切に、体の血肉として生かしていこうと思う。

ちなみに僕はひかりものが好きだ。寿司屋に行くと、必ず鯵や秋刀魚と鰯を頼んでいる。満足いくまで寿司を食べたのち、〆にラーメンを頼むのが定番の流れだ。今は糖質制限中なのでお預け中だが、週一回のご褒美DAYでは思う存分食べている。

ここまで書いて気づいたが、シャリの量で文句を垂れてる自分がちっぽけな男に見えてきた。僕は何を書いているんだろうか。

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