筆者の思想

”空っぽの芸術”から学んだこと

音楽や舞台、絵画やその他…人の手によって作られる作品はすべて芸術だ。クリエイターという言葉が重視され始めた昨今は、より芸術的な働き方を求めている人間が多くなってきたように思う。

昔から、僕らは芸術を仕事にすることに憧れを抱いて生きてきた。歌手になりたい。役者になりたい等々。どこか”非日常”を人生にできる分野に夢を持っていたからだろう。

目指すに至る動機のほとんどは、「目立ちたい」「モテたい」などと言ったエゴイスティックな部分からだと思っている。悪い意味ではなく、人は自分の欲求をヒントに生き方を模索する生き物だから当然のことだ。問題は、欲求を支配する者と支配される者とで、作品に雲泥の差が出るということ。本記事では、欲求に支配された作品が如何に”空っぽ”となってしまうのかについて、個人的な見解とそれにより起こる波及効果を記していく。あくまでも僕個人の意見なので、「なるほど、こう考える人もいるんだな。俺(私)は違うけど」程度で読み進めてほしい。

まず、芸術を仕事とするには、夢を志した当初の「目立ちたい」「モテたい」等々の動機のままでは成立しないことはお分かりだと思う。芸術文化は家電良品のような形ある商品とは違い「目に見えない価値」を提供する仕事。しかし、顧客への需要と供給を果たしてようやく社会貢献へと繋がることは共通の理念であることに変わりはない。

だからこそ、作品を制作する上で必要になってくるのは”承認欲求”ではなく、お客様に向けた”意味づけ”となってくる。つまり、どうしてこの作品を作るのか? という想いと、作品を見聞きしたお客様に何を持って帰っていただくのか? だ。

”作りたいから作る”で出来上がった作品は、もちろん”作りたいから作るというメッセージ”のみが先行してしまい、受け手もそのまま感受し持ち帰ってしまう。残念ながらそういった作品は”つまらない”と評価されることが多いし、僕も利己的な芸術はそれなりに観てきたためよくわかっているつもりだ。

芸術で食っていくようにするのは並大抵のことではないし、商業作品となれば社会の風潮に”媚びなければならない”こともあるだろう。だからと言って、前述したような”空っぽの芸術”を生み出してしまっては本末転倒ではないか。

既に戦っている人たちが娯楽を求めて芸術に触れにくる。受け手の傷を癒やし、生きやすくなるようなヒントを貢献するのが我々の役目だと僕は思っている。悩める人をさらに悩ませ、戦わせることは僕の理念にそぐわない。

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他の分野でもあるように、芸術にもある程度の型が存在する。技術を支える最重要なものこそ型であるにも関わらず、多くの人は型を習得することを”パクること”と混同し躊躇する。おそらく、パクるという言葉が障壁となっているのだろう。

”型破りな作品”とよく耳にしたことがあると思うが、あれは型を習得した上で初めて実現できる技であり、決して基礎が出来上がっていない素人が成し遂げられるものではない。できるとすれば、一種の天才と呼ばれる者くらいだろう。残念ながら僕も天才ではないため、多くの先駆者たちの知恵を本や生の現場で学び、自分の創作に落とし込んでいる次第だ。なかなか時間のかかる作業だが、誰かに求められるような意義ある芸術を世に発信するためには避けては通れない道だ。

ある公園での出来事を話そう。子供は砂場で丹念に「砂の城」を築き上げていた。細心の注意を払い、ようやく完成した砂の城を父さんや母さんに見せるため、子供は元気いっぱいに声を出した。「僕の作った砂のお城だよ! すごいでしょ! 格好いいでしょ!」。子供は自分の最高傑作を自慢げに披露する。お父さんやお母さんは、我が子の成果を大いに喜び「すごいわね!」「よく作ったね!」と賛美の限りを尽くし、親子は幸せな時間を共有しながら帰路に着いた。

ちなみにこの話は自作だ。とは言ってもよく目にするような光景だが、読んだあなたはどう思っただろう?

僕は、”空っぽの作品”を創作している人は、この”砂の城を作る子供”と同じだと思っている。”自分が作りたいもの”というテーマだけで創作し、多くの人の時間を犠牲にして披露しているからだ。

残念ながら、僕らの作った作品を観にくるのは”お父さんやお母さんではない”。優しく無条件で称賛してはくれないのだ。親は子供が努力して作ったものを肯定するが、それは我が子が頑張った姿勢に対する包容力から生まれるもので、第三者としてのレビューとは程遠い。おそらく赤の他人が見たら、他の子供が作った砂の城と大した変化を感じられずスルーする。それか、”子供が作ったものだしね”と軽く微笑まれるかのどちらかだ。社会的な言い方に換えれば”素人が作った作品だし仕方ないよね””勉強不足だね”と一蹴されるのがオチだろう。

承認欲求を満たすのは良いことだ。幸福感を得られ、次のステージに踏み出すためには必要な勇気を与えてくれる。作品を作ったら観てもらいたい。僕も、観てほしいし聴いてほしいから脚本や小説、映画、そして歌を作りYoutubeをやっている。でも、それだけではダメなのだと、何度も自覚し課題と向き合うことになるのだ。

他者に作品を観てもらうために必要なものは何か? それはお金でもない。コネクションでもない。”時間”だと僕は思っている。

もちろんお金やコネクションは大事なものだが、あくまでも利用するものなので二の次だ。人はその人に時間を使うかどうかを判断するため計算して予定を立てる。時間を使って然るべきものかどうかわかった時点で、初めてお金を払い、コネクションが生まれる。お金と同じくして時間は有限だ。人によって寿命の多少はあるが、刻一刻とこの世界から退場するタイムリミットが迫っている。そんな希少性のある時間を、僕らは大切な人や芸術、諸々に費やし、”奪っている”ことを自覚しなければならない。

僕ら創作者が重要視しなければならない点は、”ただ最高品質の作品を生み出すこと”ではなく”観客が時間を使って良かったと感動される創作”だろう。

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わかったからと言って作品に反映されるかどうかは芸術家によって違う。型を学んだ上で漏れ出すオリジナリティ、センスやユーモアは、創作しながらインプットとアウトプットを継続した者だけがしか得られないものだからだ。しかし、知った上で取り組む姿勢は、確実に他とは比べ物にならないほど素晴らしいオーラを放つだろう。

人は無意識に意味を求めて芸術を楽しむ。それは答えを探しているからだ。人間関係、恋愛、働き方、夢…娯楽の裏には人ひとりひとりが向き合っている課題解決のためのヒントが込められる。だが、探し出すのは当人だ。それを見つけてもらえるように、持って帰ってもらえるように、如何に芸術的に親切に作品を構成できるのかが、僕らに共通する課題だ。

僕も引き続き、誰かに響くストーリーを創作できるよう、学びと実践を繰り返していこうと思う。

”空っぽの芸術”ではなく”価値のある芸術”を残すために。

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