広告 筆者の思想

焼肉の食べ方からわかる人の性質

物を取る仕草一つで、対象人物の性格を予測できる時がある。人の動作は、過去から現在までインプットした学びの集大成だからだ。

人生はアウトプットの繰り返し。脳と体は常に稼働し続けているため、無自覚に効率の良い動きを分析している。結果、次第に洗練された独自の行動パターンへと成長を遂げるわけだ

体の動きには、人の歴史が詰まっている。

ある食事の席のこと。映画の撮影終わりに、スタッフと出演者と一緒に焼肉を食べに行った。鍋や焼肉の食べ放題は、人の性格が顕著に表れる食事だ。やはり今回の焼肉でも人それぞれの片鱗を垣間見れた。今日は、特に気になった「男性A」と「男性B」について話そう。

まず、店員の持ってきた肉を分け隔てなく一つの皿にまとめる「男性A」。

もちろん、男性Aには明確な目的があっての行為。彼は初手で頼みすぎた食事を循環させるため、数種類の肉を同じ皿へと山盛りにしてくれていた。味が混ざることなど関係ない。男性Aにとっては、次の商品を置くためのスペースができ、焼いて胃袋に入ってしまえば関係のないことである。もちろん、彼なりの善意あっての行動だ(多分)。テーブルが男性のみだったため、僕も軽くツッコミを入れるだけだったが、これが女性相手なら話は別だろう。下品な男と罵られ、席を立たれていたかもしれない。男性Aはその後もキャベツを手でめくっては豪快に網の上に放り投げていた。焼いている肉の上に覆い被さっていくキャベツを見ていると、さながら「野菜炒め」を作っているような光景だった。

男性Aは物事を整理して考えることが得意だ。話口調も落ち着いており、伝えたいことをわかりやすく相手に発信する技術に長けている。おそらく、彼は他の人間も同じような性質でできていると思う傾向にある。「自分にできていることは相手にもできる」と思ってしまうのだ。結果、良かれと思ってやっていた行為「数種類の肉を同じ皿に盛る」「キャベツを手で千切っては肉の上に放り込む」は、男性Aの善意として受け取られ難くなってしまう。皆が皆、同じ考えを持っていないからだ。男性Aは一つの分野に対する丁寧さは突出しているが、その分、他のことになると注意散漫となってしまうことがわかった。席に座っていたのが女性でなく、男性陣で良かったと切に思う。

次に話すのは、意気揚々と食べ物を貪り、終始忙しそうに肉を焼いていた「男性B」のこと。

男性Aと同じく、食べ方に上品さのかけらもなかったが、見ていて清々しいものがあった。男性Bの性質は、身のこなしすべてで全力表現されていたと言える。チシャ菜(サンチュ)を掴み口に加え、葉で天を仰ぐように顔を上げると、鮮やかな緑色の物体はみるみるうちに姿を消した。彼の食べ方を見ていた僕は、腹をすかせたコツメカワウソが大好きなサーモンを頬張る姿を思い出す(知らない方は、是非ともYoutubeで確認してほしい)。動物的なハツラツとした食事から、どうして下品ながらも清々しい気持ちを抱けていたのか納得がいった。

男性Bは、素直な心の持ち主なのだ。

作品への誠意ある取り組み。良くするためなら嫌われることも厭わない発言力。故に空回っているところもあるが、彼には昔からずっと根付いてきた少年の心があった。その証拠に、焼けた肉を人のために取り分けたりと気配りもできていた。女性が見たらどう思われるのか想像に難しくないが、元気で純真であることに罪はない。フォローになっていないかもしれないが、最高の褒め言葉である。

後半には、男性Aと男性Bのコラボレーションまで実現した。

網交換にやってきた店員。作業の際に網を持ち上げるための専用トングがあるのだが、AとBは何故か協力して自身の肉用トングで持ち上げようとした。彼らの善意が、自らを盲目にしてしまったのだ。二人は両面から網を掴み上げる。ちなみに、網の上にはまだ肉や野菜が乗っている状態だ。僕はその状況を見て、男性AとBに共通しているポイントがもう一つあることに気がついた。二人とも、横着なのだ。網の上の食材を退ける手間を惜しんだ故の行動だった。

結果は虚しく、二人の共同作業は失敗に終わった。網はひっくり返り、上に乗っていた一番上等であろう肉が奈落の底へ落ちていった。業火の中、堕落した肉がどうなったのかは知る由もない。そっと見守っていた店員は「失礼します」とだけ口にした後、専用トングで最も簡単に網の交換を行う。男性AとBは「そんなアイテムあったんや」と言わんばかりの表情で、ピカピカに生まれ変わった網を見つめていた。下で燃え盛る炎は、消し時を見失った二人の善心を表しているように見えた。

人それぞれ、過ごしてきた環境によってインプットとアウトプットの質が変わっていくもの。良質で効率的な動きは主観によって形成される。時には他者の動きを参考に学ぶこともあるだろう。

僕は比較的、頭の悪い人間だ。しかし、食事一つで為人(ひととなり)を推測することはできる。要するに、僕らは知らない間に値踏みをされているということだ。見る者は見られる覚悟を持って初めて、他者の探求をする権利を得られる。粗を見られたくないのならば、常にカメラで狙われていると思って生きていた方が、窮屈ではあるが無難に魅せることができるのだろう。

体の動きには、人の歴史が詰まっている。

読者の皆さんも、一度分析を試みてはいかがだろうか。
もちろん、自分自身も分析されていることをお忘れなく。

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