筆者の小説・詩

ショートショート「境界線」著者 MAGUMA

 鬱蒼うっそうと茂る木々は、あたかも私の心情を表現しているかのように、互いにぶつかり、交わり、入り乱れている。ひとつ違うのは、大自然の様に風通しの良い解放感がないことだけだ。

 生まれてから大学を卒業して就職するまで、ただただ与えられた道をひたむきに走り続けてきた。私を例えるならば、余計な虫を寄せ付けず、見てくれをよくするために農薬を撒かれた野菜のようなものだ。もっと言えば、品種改良まで施されているかもしれない。

 だが生憎あいにく、私は人間だ。自分の体に農薬を撒かれたら「なぜ?」と聞きたくなるし、遺伝子を操作しようものなら「やめろ」と拒絶する権利だってある。どうやら義務教育は、私を削ぎ落としきれなかったらしい。

 社会に対して疑念を抱くようになってからというもの、私は身の回りにあるものがすべて人工物であると自覚をする度に、酷い吐き気に襲われるようになった。

「なんでありのままではいけないんだ」

 至極しごく当たり前のような私の訴えも、一般人には到底理解できないものなのか、はたまた禁句とされているのか、揶揄やゆされるか黙殺されるかのどちらかだ。

 生きているのに、死んでいる。

 いびつな状態であるにも関わらず、家族も友人も、恋人ですら、不条理な世に対して一切の疑問を抱かない。こんな愚かなことがあっていいのか? 私はごめんだ。一刻も早く、死のパレードから脱出せねばならないと思った。

 焦燥感しょうそうかんは詰まった下水のように悪臭を放ち、次第に膨れ上がって破裂する。もちろん、私の場合は事後だ。既に破裂してしまった結果、ひとり山の中を放浪する生ける亡霊となってしまったのである。

「これからどうしてやろうか。どこまで行こうか。どうせ死んでいるんなら、このまま死んでやろうか」

 「死ぬ」と言っても、自ら命を断つ度胸はまったく持ち合わせてはいない。なので体裁を整え「流れに身を任せる」と言い方を変え、虚勢を張っているのが正直なところだ。
 原始より、人間は自分を強く見せなければ支配される立場にいた。見栄を張ることは代々受け継がれてきたさがであり、私たちにとっては当たり前のことだそうだ。と、それらしく言い訳しておく。

 それにしても、やはり自然は心地良い。
 
 先程の虚勢や見栄の話とは違うが、聞くところによると、私たち人類の遺伝子は数万年経った今でも原始時代にいると思っているようで、産業革命以降の都市環境にはまったく適していない。祖先の暮らしていたありのままの循環をしっかり覚えているからこそ、私たちは自然に心を奪われ癒されているらしい。

「なんか様子が変わってきたな」

 先へ先へと進むごとに、自然の色が徐々に色濃くなっていく。澄んでいた空気も冷ややかな棘に変化し、ちくちくと剥き出しになっている肌を悪戯のように突いてくる。随分と奥まで来てしまったようだ。

 日が沈み始め、山道に入った頃が昼過ぎだったことを思い出し、私の中でほんの少しの恐怖が芽を出し始める。引き返すなら今だろう。まだ取り返しがつく段階だと頭の中ではわかっているつもりが、足は別の生き物のように枝葉を踏み散らかしながら前へと進んでいく。

 想いは得体の知れない魔物に吸い寄せられているように止めることができない。大自然の圧倒的な包容力に意識を持っていかれそうだった。
 私は一度歩みを止めて深呼吸をすることにした。汚れのない空気を胃の隅々にまで浸透させることで、邪念を浄化しようと思ったのだ。

 その時だった。林の中を、一つの黒い影が鼻息をあげて駆け抜けていった。影の正体が猪であることは安易に予測できたが、心の底から湧き上がってくる正気なるものが、全身に鳥肌という形で現れる。私は、怖くなってきた。

 猪は私に気がついて逃げていったのだろうが、とんでもない領域まで足を踏み入れてしまったと自覚した私も、急ぎ来た道を引き返した。

 それにしても、どうしてここまで来てしまったのか? 気持ちが病んでいたからだろうか? いや、違う。自然の誘惑に取り憑かれていたからだ。DNAが、もとより暮らしていた自然に「帰らせろ帰らせろ」と訴え続け、私の本能が無意識に体へ信号を送信していたのだ。

 理性を取り戻した私は、同じく本能に警報を鳴らす”恐怖”に従い、早足で獣道をくぐり抜けていった。

 周囲は、最早もはや私の知っている森ではなかった。耳を塞ぎたくなるほどの莫大な自然音がより一層の緊迫感を演出し、目の前に現れるちっぽけなアライグマでさえ、立ちはだかる大きな壁のように見えた。一方では「帰れ」。もう一方では「おいで」と、大自然は私にアンサーを求めている。そんな気がしていた。

「そんな、マジかよ」

 私の目の前に再び猪が現れた。正確には、私が遠くにいる猪の姿を感知した。あちら側も私の存在に感づいているだろうが、問題はそこではない。あろうことか、今度は子連れの猪たちがそこにいたのである。

 親は子を守るためならなんでもする。人間界では例外もあるかもしれないが、こと動物界では親子の絆は平等に健在だ。下手に刺激すると攻撃される。運が悪ければ死ぬかもしれない。私はどうすればこの窮地から抜け出せるかを必死に考えた。そして同時に、「生きようとしている」自分がいることに気がついた。

 私は周辺に散らばっていた枝を拾い、猪の後方に放り投げる。気を逸らすためだ。

 猪が気を取られているうちにゆっくりとその場から移動し、なんとか逃げ切り、無益な血を流さず事なきを得た。もっとも、戦ったところでこちらが負ける確率の方が高かったのだが、あえて、ここでも虚勢を張らせてもらうことにしよう。

 無事に山から脱出し、嫌いだったはずの都会へと帰ってきた私は、安心感と共に、妙にこの世の真理に近づいたような感覚に浸っていた。

 後になって気がついたが、私は”大自然の境界線”に鉢合わせしていたのかもしれない。

 あの時、私は二つの選択を迫られていた。一つは「死にたくなければ帰ること」。もう一つは、「来るなら自然に反するものを全て脱ぎ捨てて超えること」だ。

 自然は、中途半端な状態で境界線を超えることを許さないのだろう。何故なら、私たち人類が作り生み出してきたものは、大半が地球の法則に反するものばかりだからだ。光と闇があるように、善と悪があるように、どちらか一方が欠けては成立しない世界で、自然は共存・調和を重んじているのだと感じた。

 しかし、地球は人類が欠けたところで困ることはない。人間の力を必要としなくとも、自然は常に循環し続ける。だからこそ、地球という星は寛容なのだ。
 私が山で彷徨っていた時、容赦なく命を奪うこともできただろう。私に、”帰る”選択肢を与えてくれたのは、私たちの過ちも何もかもを包み込んでくれる”優しさ”だったのかもしれない。

 あまりに規模が大きすぎる思いやりを完璧に真似をすることはできないが、私は人間社会でも、同じような気持ちの在り方でバランスを取って生きていこうと学んだ。

 自然であろうがなかろうが、この世には”超えてはならない境界線”が存在するのだから。

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