広告 筆者の思想

越えてはならない「大自然との境界線」

それ以上、先へ進むのであれば
 あなたは人間社会で生きることを辞め
  地球と同化する道を選んだと見なす

受け入れるも良し 拒むも良し
 どちらも平等にあなたは歓迎されるだろう

不埒な心持ちで境界線を越えてはならぬ
 星は人の心を敏感に感じ取り
  すぐさま道徳に訴えかけてくるだろう

時には動物の声で 時には川のせせらぎで
 自然の音と色を駆使して、あなたに選択を迫ってくる
  
温情ともとれる母なる問いかけは 
 太陽のように包み込むこともあれば
  跡形もなく消し去ることもあるだろう

By MAGUMA

自然には見えない境界線が存在し、越えることも越えないことも、どちらの選択も容認してくれる。僕は一度、肌身で確かな線を感じ取ったことがある。直感が警報ライトのようにくるくると回り、僕の頭の中に訴えかけてくるのだ。「お前の目の前にある線を越えれば、元の世界へ帰ることは許されない」と。

人の手が加えられていない領域に入るのはキャンプへ行くことと訳が違う。大自然の中で、僕らは有害物質でしかないからだ。鬱蒼とした原生林や深海は何万年もの時を経て循環し調和が保たれている。体内に余計なウイルスが入ると体調不良になることと同じで、僕らが入ることで静寂なる協定はたちまち機能不全を起こすのだ。

敏感で繊細な生命たちの住う場所は、時に聖域・神域とも呼ばれる。聖域・神域と称される場所は人が住むことを許さない。むしろ、住むことができないと言ったほうが正しい。何故なら、根付いている命が、「ここは危険だ」と、本能に語りかけてくるからだ。聞こえてくる声はあまりに感覚的であるため、無意識のうちに足が動いてしまう。当事者には従った実感はまるでない。真の御業(みわざ)とは、人間が感知できないレベルのものを言うのだ。

僕が境界線と出会った時の話だ。生活もままならず、ひどく落ち込んでいた時期。心が病んでいたらひたすら歩き続ける習性がある僕は、近くの山へと入っていった。先に何があるのかは関係ない。ただ、内なる闇を払い除けるために自然の力を借りようとしただけだった。登山客が利用する整備された安全な道から、無我夢中で上へ上へと目指していた。

時刻は夕方に近づいていた。気がつけば周囲に人の気配はなくなり、聞こえてくるのは風によって擦れ合う木々の囁き声だけ。周辺の色は鮮やかな緑から深緑へと変化し、山に住む生き物の声も次第に大きくなっていった。この時の僕は、戻らなければ危ないとわかりつつも、何故だか意識は森の中に吸い寄せられていった。自分がどうなろうとどうでもよくなっていたのだ。

やがて開けた場所に出ると、僕はようやく立ち止まった。他の人間は誰もいない。一人だけの時間だった。枝枝の隙間から僅かに映る空の様子。僕が空を覗いているのではなく、まるで空が僕を覗いているように思えた。完全なる超自然的環境を利用し、すべての流れに身を委ねる。風の音を聞き、森の様子を眺めることにしたのだ。

すると目の前に、鼻息と共に黒い物体が駆け抜けていった。イノシシだった。人の気配を感じて逃げていったのだろう。先程まで自然と同化しかけていた僕は、生命との対面をキッカケに、すぐにその場から引き返し始めた。忘れかけていた「怖い」という感情が蘇ったのだ。しかし、大自然の手招きはまだ終わらない。気がつけば、来た時とは違う別の道を選んでいたのだ。

道の先には、大きく口を開けた雑木林が待っている。「この先へ行こう」と決心した僕はゆっくりと歩みを進めた。バクバクと鳴り止まない心臓。精神はすでに引き返すことすらできない状態となっていた。誘われるが如く大きな口の中に向かい始めた時。今度は小さなアライグマが姿を現した。アライグマは僕に気がつくと、いそいそと木の上に登り、迷い込んできた得体の知れない生き物をじーっと見つめた。

「こっちに来るな」という明らかな声が聞こえてきた。それがアライグマの声なのか別の声なのか判断はできないが、我に帰った僕は元の道へと戻る。しかし、再びイノシシが行手を阻んだ。正確には近くにいただけだったが、僕が身動きできなくなったのにはある理由があった。子連れのイノシシだったのだ。子供を守るためなら、親はどんなことでもする。刺激を与えれば一戦を交えることになるのは明白だった。「どうなってもいい」と思っていたはずの心は、いつしか「死にたくない」「帰りたい」という生存本能に回帰していた。僕は、自然との境界線に入っていたことを知ったのだ。

「事実は小説よりも奇なり」とはよく言ったものだが、現実はそう簡単に奇妙な結末を演出しない。残念ながらその後の体験に山場は何もなかった。今こうして記事を執筆できているのが、無事に危険を回避して下山することに成功した証だ。

木の影で身を隠しながら抱く確かな後悔。無謀にも自然の胃袋の中に飛び込んでしまった故の恐怖。あの時の感情を今でもよく覚えているのは、当時抱いていた恐怖こそ「超自然的なメッセージ」だったと確信を持てたからだ。

もしも聖域・神域に身を投じるのならば、文明社会で彩られた装飾品をすべて捨てなければならない。自然は中途半端な状態で足を踏み入れることを喜ばないからだ。冒頭でも話したように、有害物質は機能不全を招く。自然は、物理的精神的な負債から解放された者の命は奪わない。しかし、俗世のものを背負って訪れた者の命は容赦無く奪うだろう。答えは白か黒かしかないのだ。

僕は自然に温情を感じている。何故なら、当時の僕に取捨選択の猶予を与えてくれたからだ。

「こちら側に来るのか?来ないのか?」「今の状態で来ればただではおかない」「来るのなら覚悟を持って来るがいい」。誘われるように山の中を進んだことも。恐怖感で右往左往したことも。僕に選択を促すためのものだった。そのおかげでギリギリのところで引き返すことができたのだ。もしも温情がなければ、境界線に触れた瞬間に僕は命を落としていたことだろう。

対話は人間同士だけの手段ではない。声なき者の声を聞こうとする気持ち。自然は常に人の心をジャッジしている。実体験から学んだことは、自然は耳の傾け方次第で、敵にもなり味方にもなると言うことだ。

人間は、自然環境に身をおくとリフレッシュできるらしい。何故なら、原始の自然環境で暮らしてきた祖先の血が、代々受け継がれているからだ。約700万年の間、自然と共に過ごして来た人類が、(産業革命以降を都市化と仮定した上で)都会で暮らしだしてからまだ300年足らず。人体は今の社会に適応しきれていない結果、心の病が横行してしまうのである。

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現代文明との付き合いを手放さない。自然にも呑まれない。二つの世界で生きるためには、自然と共存することが唯一の解決策だ。どちらか一方を破壊すれば均衡は崩壊してしまう。しかし、人にはそれぞれ自由に選択できる権利が付与されている。身を捧げ、自然と同化することも一つの生き方だ。時に一人の選択が多くの人を不幸に陥れることもあるが、間違った権利の行使は必ず本人が報いを受ける。この世は常にバランスで成り立っているのだ。

選択の際は、必ず調和が保たれるものでなければならない。否定すると、生まれてくるのは争いだけだ。人類が自然を否定すれば、自然は必ず人類に報復を誓うだろう。だが、自然は人類を否定することは決してない。では何故、火・水・風・大地・海は僕らに牙を向くのだろうか?あなたなら、もうその答えを知っているはずだ。

人類の生き方そのものが、すでに地球の秩序に反しているからだ。

僕がパソコンで記事を執筆していることも、自然の中では愚かな行いに過ぎない。人類はエゴのために膨大な資源を利用しのうのうと生きている。世界レベルでは遠の昔に境界線を超えてしまっているのだ。だからこそ、自然は幾度となく僕らに牙を向く。着実に次の世代へと受け継がれていく代償。個の時代におけるツケの精算は、一人ひとりが線を超えないようにする意識改革の他にない。

この世には、触れてはならないものもある。自然との境界線を見極めるのは、今からでも遅くはないだろう。

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