邪馬台国の女王「卑弥呼」。あなたは突然、卑弥呼について説明しろと言われたら、どこまで解説することができるだろうか?おそらく、大半が歴史の授業で習った程度の知識しか持ち合わせていないだろう。だが、何も恥ずべきことではない。何を隠そう、卑弥呼と邪馬台国について記されているのは、日本の歴史書ではないからだ。
誰もが知っている日本の女王を、誰もが知らないのには様々な憶測が飛び交っているが、本記事(動画)では陰謀論的な部分にはあまり触れずに、卑弥呼と邪馬台国についての基礎知識を簡単に解説していこうと思う。
それではしばしの間。私とともに歴史の浪漫の渦へと旅を始めよう。”日本史最大の謎”あなたの知らない「卑弥呼」と「邪馬台国」へと誘う旅へ。
卑弥呼とは何者か
なぜ、国内には卑弥呼の史実が存在しないのか?それには、当時の日本には文字を書く文化がなく、歴史を残すための技術を持っていなかったからだと言われている。では、どうして我々が卑弥呼を知り得るに至ったのだろうか?それは、海を隔てた隣国「中国」の歴史書「魏志倭人伝」「後漢書」三国志の『魏書』巻三十「烏丸鮮卑東夷伝(うがんせんびとういでん)」の一部に、当時の日本のことが記されていたからだ、我々日本人の間で卑弥呼が広く取り沙汰されることになったのは、その記述によってのものなのだ。
当時の日本は、中国側より「倭国」という名称で呼ばれており、卑弥呼は、その倭国…邪馬台国の統治者として描かれている。
卑弥呼とは、2世紀から3世紀に忽然と姿を現した日本の女王で、記紀には「卑弥呼は鬼道を事とし、能く衆を惑わす」存在として語られている。つまり、卑弥呼には不思議な魔力があり、その魔力を持って大衆を操っていたと伝えられ、その力は倭国内で起こっていた多くの大乱を収めて行ったとされている。
2世紀後半、倭国は男の王が統治していた。倭国大乱と呼ばれる戦国時代では争いが絶えず、国内では多くの命が落とされていたいう。困り果てた各国の首長たちは会議を重ね、一人の女性を邪馬台国の女王として共立することで、国内の争いは治めることに成功した。その女王こそ、後に卑弥呼と呼ばれることになる存在だったのだ。長きに渡り乱れていた国々にはたちまち平和が訪れ、西日本を中心として広がっていた各国々は、卑弥呼によって同盟を結ぶことにより争いに終止符を打つ。そうして出来上がったのが、邪馬台国連合と呼ばれる連合国だった。
卑弥呼については、実のところ、倭国時代においても謎多き人物だったことがうかがえる。なぜなら、卑弥呼の側には常に千人の侍女がいたとされており、女王となってからは人前に姿を現すことがなかったからだ。鬼道氏であったがためか、未婚の老婆だったという噂話程度にしか情報がなく、中国の使者の中にも、実際の卑弥呼の正体を知る者はいなかったようだ。
では、どうやって卑弥呼は邪馬台国において政治や外交を行なっていたのだろうか?一説によれば、卑弥呼の弟なる存在が、国政や食事の手助けをしていたという話があり、彼女の部屋へ唯一入れる存在も弟だけだったようだ。
現代でも古代でも巧妙に姿を隠し続けた卑弥呼。時を超えた今でも、専門家ですら頭を抱えてしまうほどミステリアスな存在として議論され続けている。
卑弥呼の真の呼び名と役職
当時の中国側から見た日本は、野蛮で恐ろしい国だった。そのため、卑弥呼の卑や邪馬台国の邪を見ればわかるように、中国の記紀に書かれている倭国や卑弥呼の字には、蔑視を込めた漢字が割り当てられている。
卑弥呼の役職については、鬼道という不思議な魔術を使っていたと言われていることから、おそらく、祈祷師だったのではないかと推測されている。神々の言葉をその身に受けて、天災の予知や五穀豊穣などの道標を告げ、民を導いていたのではないか。当時の民にとっては、あらゆることを予言できる存在は神に等しかった。女王として絶対的な地位を獲得でき争いが収まったのも、卑弥呼と神の繋がりが大きな影響力を秘めていたからだろう。
また、古代日本においては太陽が神聖視されていたため、太陽信仰は農業や季節の変化と深く関連づけられていた。太陽信仰は古代日本の宗教の中でも非常に重要な要素の一つであり、卑弥呼が行う祭祀や儀式は、太陽と結び付けられていたのではないかと考えられている。
ここで、卑弥呼という呼び名の本当の読み方が浮き彫りになってくる。
先ほど言ったように、卑弥呼という読み名は蔑視から当てられた漢字だ。つまり、中国側の使者が聞いた言葉を漢字にしただけであり、日本においてはまったく違った意味で発言されていたはずなのだ。もしも古代日本が太陽信仰に執心していたとすると、卑弥呼の役職は太陽の巫女だ。とすると、彼女の呼び名は日の巫女。そう、日巫女ということになるのだ。
卑弥呼は倭国だけにとどまらず、外交にも大きな成果を残している。
連合国を築いたと言っても、やはりすべての国が彼女に賛同したわけではなかったようで、中でも狗奴国(くなこく)の男の王「卑弥呼子(ひみここ)」とは、一触即発と言っても過言ではないほど仲が悪かったようだ。
彼女は戦争時の後ろ盾を獲得するべく、中国の中でも魏国の皇帝に朝貢(使いを出して貢物を贈る)していたと言われており、その貢物は魏の皇帝を唸らせるほど大層立派なものだったらしい。貢物の考察には諸説あるが、中でも興味深い一説を紹介しよう。古代日本においては翡翠の勾玉は非常に高価なものだった。卑弥呼は皇帝に勾玉の献上を検討するが、その勾玉を磨き上げる技術は中国にないことを見抜き、勾玉と共に職人も数人献上したそうだ。結果、その貢物に大満足した魏の皇帝は、彼女こそが日本の女王と意味する「親魏倭王」という称号と金印、銅鏡100枚,5尺刀2口などを贈り、卑弥呼と邪馬台国は強力な味方を確保することに成功したのだ。
外交や政治については、先ほど登場した卑弥呼の弟も大きく関与した可能性があるが、史実を見ていくと、卑弥呼がいかに頭の切れる存在であったかが、数多の説からうかがい知れる。
謎の国”邪馬台国”とは
実際に邪馬台国がどこにあったかは、卑弥呼の存在と同じくて明確になってはいない。場所についての議論は今もなお絶えず繰り返されており、主な説として、畿内説・九州説・四国説・越前説などが存在する。詳しくはわからないが、一部の専門家の中ではボルネオ説まで浮上しているようだ。
邪馬台国はのちのヤマト王権に大きく関わっているという話もあるが、卑弥呼が統治していた歴史から大和王権創立までの歴史が”空白の150年”と呼ばれているため、何が起こったのかを調べることができない。要するに、歴史書が存在しないのである。
魏志によれば、邪馬台国は中国から数千里離れた場所に位置し、多数の部族から構成されている。
中国や朝鮮半島との交流があった国で、その証拠に、魏国より授かったとされる銅鏡、三角縁神獣鏡(さんかくえんしんじゅうきょう)などが国内で出土されているが、この銅鏡は中国では出土例がないため疑問視されているため、残念ながら邪馬台国の存在を証明する決定打にはなっていない。
また、魏志に記されている通りに邪馬台国までの経路を辿ると海に飛び出してしまうらしく、所在地についての正確性は非常に薄い。魏志を執筆した陳寿という人物も、実際に倭国に足を運んでいたわけではなく、帰還した使者の話を聞いた情報をまとめているだけのようだ。現代のように人工衛星はなかったため、当時の記録技術では限界があったのかもしれない。
魏志には、邪馬台国に住んでいた民…即ち倭人の文化が事細かく記されている。
倭人の食生活としては、狩猟によって鹿や猪などを狩っていたことや、農業では米や麦、豆類などを栽培し、米を主食とした食事をしていた。社会構造は、各部族によって構成され、部族長たちの交流によってしきたりが決まっていた。倭人の見た目は、髪を伸ばして後頭部で結び、前部を前に流すように結っていた。髪飾りとして「銅鏡(どうきょう)」や「鉢(はち)」と呼ばれるものを使用しており、これらの髪型と髪飾りは、倭人の特徴的な外見の一部だった。倭人は「纻」(ふ)と呼ばれる服を好み、刺繍を施し、美しい服飾文化を持っていた。纻は身分や地位を示す重要な要素で、国王と一部の貴族が豪華な纻を身に着け、さらに倭人は青銅製の飾りや装飾品をつけていたことから、身なりがとても豊かだったという。また、「男子は大人と子供の別なく、みな顔面と身体に入れ墨をしている」等々。倭人伝には様々な古代日本人の文化が書かれている。
陳寿の記した邪馬台国の文化の信憑性は、あまりにも多様的である。なぜかと言うと、陳寿は帰還した使節団や交易商人など、倭国に赴いていた幾人の人々に情報収集していたためである。派遣されていた者はそれぞれ倭国の様々な土地に行っていたはずなので、集まった情報が何も邪馬台国だけの文化だとは考えにくいからだ。邪馬台国の所在について明確な答えがないのも、おそらく情報の錯綜により混同してしまったためだと思われる。
そして、邪馬台国の呼び名についても、卑弥呼の呼び名と同様に、正確には「ヤマト国」ではないかと言われている。ヤマト国であるならば、のちに創立されるヤマト王権と密接な関係が予測されるが、ヤマトと呼ばれる土地は各県に存在するため、これらの情報も決定打にはならず終いだ。
卑弥呼の死
外国に名を残すほど大きな爪痕を残した卑弥呼だが、忽然と姿を現したと思った矢先に、何の前触れもなく忽然と姿を消してしまう。
敵対国として登場する狗奴国の王「卑弥弓子」との争いの最中に没したと記されており、史上から呆気なく退場してしまうのだ。さらに、死亡理由についての記述はいっさいなく、戦争によってのものなのか病からなのか、考察する証拠が何も残されていない。そのため、以降は時代の転換期などを含めた当時の状況から推測するしか方法はなかった。
卑弥呼は老婆であったことから、単純に自然死なのではないかという説。政治的転換期による降板説。また、魏志に記録された情報に「赤い気を口に噛み込み、唾液が流れ出し、立ち上がって死んだ」と書かれていることから、卑弥呼は何らかの形で中毒死したのではないかという説まである。しかし、具体的な中毒物質などの原因は不明のままだ。
卑弥呼の死去。邪馬台国には再び男の王が立ち、平和を維持していた邪馬台国連合は再び倭国大乱と呼ばれる戦乱の世に突入する。ここで登場するのがトヨと呼ばれる卑弥呼の宗女であり、トヨが卑弥呼の後を継いで女王になったことで、また争いが治ったとされている。
その後の邪馬台国についての言及はなく、以降が空白の150年と呼ばれている史実なき時代に入る。そうして新たに歴史が刻まれ出したのが、”ヤマト王権”なのだ。
30余りの国を納めていた邪馬台国連合国から、突如、大王と豪族による連合政権になった経緯は、空白の150年の中に詰め込まれている。大きな歴史的変化があったはずなのだが、”なぜか”その間に起こったはずの出来事はどこにも存在しない。いや、存在しないことになってしまっている。真相は闇の中。果たして、これらの真実が明かされる日は訪れるのだろうか?
空白の歴史浪漫
卑弥呼と邪馬台国について解説してみたが、いかがだっただろうか?あなたの知らなかった卑弥呼の知識を、ほんの少しでも補うことができたのなら幸いだ。歴史から学ぶ最も大切なことは教訓だが、それだけでは非常にもったいない。知ることが許されない歴史であるならば、せめてエンターテインメントとして、歴史に浪漫を抱き語り合うのも一興ではないかと思っている。
我々が製作した映画「THE HIMIKO LEGEND OF YAMATAIKOKU」は、そんな夢と浪漫に溢れた作品となっている。本記事(動画)を観て、卑弥呼と邪馬台国に興味を持ったあなたは、是非ともチャンネル登録、グッドボタン、コメントをよろしくお願い致します。12月公開予定の映画もお楽しみにお待ちいただきたい。
それでは、本日の記事(動画)はこれまで。
ナレーションは、映画「THE HIMIKO LEGEND OF YAMATAIKOKU」の脚本・編集・共同監督 H.A.Pとして監督を務めた、MAGUMAがお送り致しました。また来週土曜日20:00の更新をお楽しみに。
チャンネル登録、グッドボタン、コメントもどうぞよろしく。
卑弥呼の映画が「日本神話」と「邪馬台国畿内説」を軸に奈良を舞台に誕生!2023年12月。空白の歴史浪漫ファンタジーが日本から解き放たれる。
映画『THE HIMIKO LEGEND OF YAMATAIKOKU』
【Story】 やりたいことがわからない普通の大学生「神宮司 日向子(じんぐうじ ひなこ)」は、進路と卒業論文が決まらず頭を抱えていた。幼馴染の「吉岡 刃(よしおか じん)」の提案により、幼い頃から見続けている「卑弥呼の夢」を論文にテーマに決めた日向子。教授「天野 照一(あまの しょういち)」協力のもと、日本史最大の謎「卑弥呼と邪馬台国」について研究に取り組むことになる。「この闇深い空白の歴史を、俺と一緒に探求する勇気はあるか?」現実世界に現れる黒い脅威。過去から託された遺産。邪馬台国はどうなったのか? そして、卑弥呼はどこへ消えたのか?日向子の決断は、夢の真相と邪馬台国の謎が直結する壮大な試練の幕開けだった。
出演:なかむらはるな 妃月洋子 冨家ノリマサ 田邉涼 小森貴仁 岸原柊 伽彩璃 長島翼 渡部陽一 高井俊彦 田中要次 村田雄浩
原作・脚本・編集:MAGUMA
脚本監修:佐藤マコト
音楽監修:宇津本直紀 / 藤とおる
撮影監督:藤田祐司
音楽:藤とおる / 葉桐新
キャスティング:清月エンターテインメント / Hizu Factory
主題歌・挿入歌:妃月洋子
共同監督:H.A.P
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