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邪馬台国はどこにあった?現存する”4つの説”を誰でもわかるように簡単解説

「倭国乱れ、相攻伐(あいこうばつ)すること歴年。一女子を共立して王となす。名を卑弥呼という」。魏志倭人伝に記されている、卑弥呼についての一説だ。

1800年前。弥生時代の西日本を統治していたとされる。謎の女王「卑弥呼」。

30余の国々を邪馬台国連合と名付け、大乱の世を見事おさめることに成功した歴史的人物。にも関わらず、卑弥呼についての細かな歴史は日本のどこにも存在せず、中でも一際、考古学者の間で論議を繰り返されているのが、邪馬台国はどこに存在していたのかという”邪馬台国論争”だ。

卑弥呼の有無はもちろんのこと、彼女が支配していた邪馬台国と呼ばれる国ですら、どこにあったのか明確に記されてはいない。前回の記事(動画)でも解説したように、唯一記録されている媒体は中国の歴史書「魏志倭人伝」となり、私たちは残された数少ない魏志を元に考察を深めていくしかない。

しかしながら、邪馬台国までの経路が記されている魏志倭人伝でさえも、その情報に信憑性が欠けているようで、正しい道のりの真意はいまだ明らかにされていない。防衛上の理由から、意図的に邪馬台国までの経路を有耶無耶にしているのか。ベストセラー作家「松本清張」も、「倭人伝に出てくる距離や日数は、陰陽五行説から造作された虚妄の数字にすぎず、拘束されること自体に意味がない」と話している。

そんな誰もがお手上げ状態の中でも、各考古学者たちは、魏志に書かれている卑弥呼と邪馬台国の情報を頼りに日本の歴史と照らし合わせながら、出土品や地名の関連性を徹底的に調べ上げ、邪馬台国がどこに存在していたのかの検証を続けた。そして遂に、長き年月をかけて、とうとう”4つの説”まで絞り込んだのである。

今回は、邪馬台国の所在について議論される4つ説を、誰にでもわかるよう簡単に解説していこうと思う。卑弥呼と邪馬台国についての大まかな情報は、前回の動画「”日本史最大の謎”あなたの知らない「卑弥呼」と「邪馬台国」を簡単解説」をご視聴いただければ幸いだ。

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それではしばしの間。私とともに歴史の浪漫の渦へと旅を始めよう。一時代を築いた幻の女王国。邪馬台国へと誘う旅へ。

邪馬台国を巡る”4つの説”

倭国と呼ばれた当時の西日本において、どこに邪馬台国があったのかを突き止めることは最重要課題だろう。場所を特定するだけで、あらゆる仮説と可能性を絞り込むことができ、より卑弥呼の謎に迫ることができるからだ。

真実を知るに至っていない現状であっても、エキスパートたちの活躍によって4つの説まで絞り込むことに成功している。本題に入る前に、まずは邪馬台国の所在を巡る説をリストアップしてみよう。

まず最初にあげるのは、邪馬台国九州説だ。西日本の南部に位置していたことから、政治や文化、交易の中心地となっており、中国との関わりも非常に高かったことが推測されている。

九州地方と対等に支持されているもう一つの説が、邪馬台国畿内説だ。大阪、奈良、京都に邪馬台国があったのではないかと言われている。中でも奈良には都があり、ヤマト王権創立の地であることから、大阪や京都に比べて格段に注目度の高いエリアだと推測されている。卑弥呼の墓として観光スポットとなっている箸墓古墳も有名だ。

邪馬台国越前説はマイナーな仮説だ。水稲栽培に適した土地であること。鉄器の出土が国内最大であることが根拠として取り上げられている。邪馬台国に住む民たちを養うためには稲作は必要不可欠であり、最も適した場所が越前福井の平野だったという説である。

最後に取り上げるのは、邪馬台国四国説だ。こちらの説は、ユダヤの民は日本の祖先だったと言われる”日ユ同祖論”ともつながる上に、阿波にあったはずの風土記が何故か歴史から抹消されていたりと、卑弥呼と邪馬台国についての真実が隠されているのではないか?と、昨今密かに盛り上がりを見せている阿波の仮説だ。ちなみに、徳島にある八倉比売神社(やくらひめじんじゃ)も、卑弥呼の墓と大々的に発言しているようだ。

以上。簡潔に紹介したが、一つの説をとっても数多くのディープなエビデンスがある。情報は増えれば増えるほど、真実が嘘となり、嘘が真実となっていくもの。いかに中立的な立場から、俯瞰して邪馬台国の有無を考察できるのかが重要になってくるだろう。しかしながら、歴史浪漫の探究に敵味方は存在しない。共に、有意義な情報収集に励むのが得策というものだろう。調査を全力で楽しむことも、探究心を燃やす秘訣の一つである。

それでは、これから4つの説をさらに掘り下げていこう。

邪馬台国 九州説

一言で九州説と言っても、福岡県糸井市を中心とした北部九州広域説から、熊本県「西都原古墳群(さいとばるこふんぐん)」や、宮崎県「球磨郡」など、同じ九州の中でも邪馬台国についての根拠は諸説ある。中国大陸製の青銅器が副葬された王墓。ムラからクニに発展した痕跡が残る大規模な環濠集落「吉野ヶ里遺跡」など、目に見える形で弥生時代の面影が残され、魏志倭人伝に書かれている邪馬台国の風貌と概略符号する。

大きなエビデンスをとしては、なんと言っても、九州北部は中国大陸と非常に近いことが挙げられる。他国の文化や風俗に触れる機会が多いため、魏志倭人伝の中でも綴られていたように、外交活動を頻繁に行っていても違和感がない。また、邪馬台国と敵対していた狗奴国は熊本だったのではないか?という仮説も出ており、鉄器の出土の多さ=権力の象徴。と、捉えている考古学者も多い。阿蘇では鉄の加工をした痕跡が多く残れていて、最先端の技術者たちがその地に集結していた可能性も考えられるのだ。

対となる畿内説ともっぱら競い合っている九州説だが、鉄の鏃(やじり)や勾玉など、畿内説の奈良県よりも九州福岡県の方が圧倒的な出土数を誇り、もともとは九州にあった邪馬台国が東征し、奈良の地でヤマト政権を立てたのではないかと考察する学者もいるようだ。

吉野ヶ里遺跡からは、新たに幅36センチ、長さ1メートル80センチの石棺が発掘された。100キロを超える一枚の石の外側には”刻線”と言われる線が交差するように刻まれており、副葬品や人骨は見つからなかったものの、石棺内部に赤色顔料が塗られていたことから、当時の吉野ヶ里では身分の高い人物が埋葬されていた可能性があるという。

九州説を裏付ける証拠は、まだどこかで眠っているのかもしれない。

邪馬台国 畿内説

畿内説を有力視する根拠の一つに、大型拠点であったとされる纒向遺跡の存在がある。周囲から出土した物の中には、農機具などは一切出てきらおらず、食べ物を献上される位の高い身分の人物が暮らしていた可能性が非常に高い。農村ではなく、都市として機能していたというわけだ。卑弥呼が生きていた3世紀初めに形成された大集落のため、時代背景とも一致している。検討の余地は十分にあるだろう。

また、卑弥呼の墓と言われる箸墓古墳も信憑性に拍車をかける。箸墓古墳は「倭迹々日百襲姫(やまとととひももそひめ)」の墓であることは宮内庁が指定しているものの、出土した土器を炭素14年代法で調べたところ、箸墓古墳がつくられたのは西暦240年~260年だと発覚。卑弥呼の死去は248年頃となっているため、卑弥呼が亡くなってから墓が出来上がるまでの時期とも符号するようだ。当時、神聖な食べ物であると言われていた桃の種の出土も、祭祀を取り行っていた卑弥呼の存在を裏付ける重要な手がかりとして議論されている。

大和は国のまほろば たたなづく 青がき山ごもれる 大和し 美 (うるわ)し」。倭建命(ヤマトタケルノミコト)が死の直前に、故郷を思って読んだ歌だ。やまとは国の中でいちばん良いところである。幾重にもかさなりあった青い垣根のような山やまにかこまれた大和はほんとうにうるわしいところである。という意味だそうだ。前回の記事(動画)でも言った通り、邪馬台国の正確な読み名は「ヤマト国」。つまり、大和のことではないかという説があり、奈良が都と呼ばれるようになった所以は、その土地に権力者がいたということを示している。

また、弥生時代に勢力を誇った北部九州と畿内が戦争状態……つまり、倭国大乱となり、畿内は見事に勝利を収めた。その結果、勝利した畿内が卑弥呼を擁立したという見解もある。しかしながら、西日本を巻き込んだ大規模な戦闘の痕跡はいまだみられていない

邪馬台国 越前説

広大な水田適地を見つけることこそ、邪馬台国の存在を決定付けるひとつの方法だろう。邪馬台国越前説は、超大国となった邪馬台国の民たちを、どのようにして養っていったのかを農業視点から検証している。

邪馬台国時代の近畿地方では、巨大淡水湖の水はまだ引いておらず、超大国が誕生するための基盤が整っていなかった。卑弥呼は治水工場にも先見の明があったと言われており、国を支える上で農業がいかに肝になるかを読んでいた。邪馬台国を築き上げる上で、土地という財産を慎重に吟味したに違いない。日本で早く淡水湖の水が引いた場所を特定することで、邪馬台国の正確な位置がわかる。大規模稲作によって生まれた超大国。それこそが越前に居を構えた邪馬台国だという話だ。

越前説によれば、人口爆発を可能とするのは、天然の水田適地があることを条件で行われる大規模稲作だ。畿内説では、淡水湖や湿地帯ばかりなため、農耕地が少なく不可能。では九州説はどうか?どっこい、筑紫平野(つくしひらの)は密林地帯のため、三日月湖跡(みかづきこあと)しか農耕できない。そこで頭角を表してくるのが、越前となる。越前の平野は古代において豊富な水田適地があったため、邪馬台国という大きな王国を支えることができ、かつ勢力の拡大も現実味を帯びてくる。農業視点から考察すると非常に信憑性のある仮説だろう。現在の福井県福井市を中心とした越前は、魏志倭人伝に記されている邪馬台国までの経路とも一致するそうだ。

弥生時代中期までは淡水湖だったが、末期には地形が大きく変化し水耕栽培が可能となった。平坦で水はけの悪い沖積層(ちゅうせきそう)から成り、畦を作る必要もなく、大規模水田稲作にうってつけの土地へと進化したのである。

また、越前では石器から鉄器に突然の進化を遂げている。通例ならば間に青銅器が挟まれるのだが、青銅器の出土はほとんどないのにも関わらず、鉄器の最大出土量を記録しているのだ。これには、卑弥呼が行なっていた外交活動にヒントがあると見られている。卑弥呼は、外交先だった鉄器の産地である北朝鮮東岸から直接、異国の使節団を越へと招来し、鉄器を手に入れていたという推測だ。貴重な資源を崩してしまう製鉄所を王国内に作らず、ダイレクトに鉄器を輸入していたというのだから、越前説においても、卑弥呼の頭の良さは健在のようだ。

越前に朝鮮渡来人の地名が多く残っていることからも、邪馬台国越前説も有力な情報の一つとして、候補に挙げてもおかしくはないだろう。

邪馬台国 四国説

日本は阿波から始まった。昨今、異様な盛り上がりを見せている邪馬台国四国説……いや、阿波説について話そう。

邪馬台国までの道のりは、畿内、九州ともに新解釈を付け加えてそれぞれの根拠を打ち出しているが、こと阿波については、経路を読み替えずとも、必然的に阿波に辿りつくことがわかっているらしい。伊都国から東に100里行き、不弥国(フミ国)もしくは奴国(ナ国)今でいう関門海峡から水行20日で役馬国(トウマ国)。つまり、高知県に上陸。そこから陸路1月をかけて邪馬台国に向かうと、現在の徳島県阿波に到着するそうだ。

また、魏志倭人伝では邪馬台国より水銀丹(朱)が出ると書かれているが、水銀が発掘されたのは徳島県の若杉山遺跡のみだ。朱は鳥居や寺院の装飾に使用されていたらしく、若杉山遺跡や加茂宮ノ前遺跡(かもみやのまえいせき)など徳島県阿南市に残っている遺跡では、水銀朱による生産、精製、祭祀の先進国であったことがわかっている。

そして、奈良県の箸墓古墳と同じくして、阿波にも卑弥呼の墓がある。冒頭でもお伝えしたとおり、八倉比売神社(やくらひめじんじゃ)のことだ。阿波説で登場する卑弥呼の仮説は、皇祖神である「天照大神」存在が肝心要となってくる。どういうことかというと、卑弥呼が天照大神と同一人物なのではないか?という説を前提として推測されているからである。

御祭神は大日靈女命(おおひるめのみこと)というのだが、なんと、この名前は天照大神の別名だと言われている。神社の名前も正式には「天石門八倉比売神社(あまのいわとわけやくらひめじんじゃ)」と言い、神話における天岩戸隠れを彷彿とさせる。

天岩戸隠れとは、弟の素戔嗚(スサノオ)の嫌がらせに愛想をつかせた天照大神が穴の中に隠れ、大きな岩で入り口を閉じた。太陽神が隠れたことにより、世界は暗闇に閉ざされてしまう。困り果てた神々は、思慮の神「オモイカネ」の案により、岩戸の前でお祭りを開くことにした。天宇受売命(あめのうずめのみこと)が踊り、皆が騒ぎ立て、天照大神が何事かと顔を覗かせた瞬間。腕力の神、手力男命(たぢからお)により表に引っ張り出され、世界に再び太陽が昇った。神々の世界を震撼させた世紀の大事件。それが、天岩戸隠れという言い伝えだ。

摂社である松熊神社には、天岩戸隠れにおいて、天照大神を外界に呼び戻した功労者手力男命(たぢからお)と天宇受女命(あめのうずめ)が御祭神として祀られている。

八倉比売神社の縁起には、天照大神の葬儀の様子まで記されており、卑弥呼の墓と言われる謎の祭壇周辺の地中には、人工物なるものが埋まっているというデータまである。但し、安易に無許可で発掘作業を行うわけにもいかず、中に何が埋まっているのかは分からず終いだ。形式上、石棺であることはほぼ間違いないらしい。

また、徳島剣山には、ユダヤの民が渡来した際に持ち込んだとされる「失われたアーク」の伝説まであることから、卑弥呼と日ユ同祖論の関連性も、調べてみると新たな発見があるのではないかと言われている。阿波については、風土記などが意図的に抹消された形跡があるため、知られるとまずい何かしらの情報が眠っている可能性があるのだ。もしかすると、阿波の消された歴史の中に、卑弥呼と邪馬台国についての詳細な記録が残っていたのかもしれない。

日本のルーツを探す旅

邪馬台国についての説をまとめてみたが、いかがだっただろうか?日本の考古学界を揺るがすほど、卑弥呼と邪馬台国は深淵に繋がるほど目に見えない歴史として語り継がれている。

卑弥呼がいたのか。邪馬台国があったのか。これらの浪漫に探究心を燃やす理由は、何も歴史に一石を投じたいという宣戦布告から成る精神ではなく、皆、日本人としてのルーツを知りたいだけなのだと思っている。あくまでもエンターテインメントであり、一人の人間だけでは知りようのない事実。本当の探究者は、おそらくこのような発信活動も行わず、人知れず卑弥呼と邪馬台国について調べ続けているのだろう。そして、私たちよりも確実に真実に近い情報を得ているはずだ。

映画「THE HIMIKO LEGEND OF YAMATAIKOKU」では、奈良を盛り上げるべく畿内説と天照大神説を取り入れ、空白の歴史ロマンファンタジーとして作り上げている。決して、「これこそが卑弥呼と邪馬台国の真実だ」と謳う作品ではないことをご理解いただき、エンターテインメントとして、面白おかしくご鑑賞いただけると幸いだ。

それでは、本日の記事(動画)はこれまで。

ナレーションは、映画「THE HIMIKO LEGEND OF YAMATAIKOKU」の脚本・編集・共同監督 H.A.Pとして監督を務めた、MAGUMAがお送り致しました。また来週土曜日20:00の更新をお楽しみに。

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卑弥呼の映画が「日本神話」と「邪馬台国畿内説」を軸に奈良を舞台に誕生!2023年12月。空白の歴史浪漫ファンタジーが日本から解き放たれる。

映画『THE HIMIKO LEGEND OF YAMATAIKOKU』

【Story】 やりたいことがわからない普通の大学生「神宮司 日向子(じんぐうじ ひなこ)」は、進路と卒業論文が決まらず頭を抱えていた。幼馴染の「吉岡 刃(よしおか じん)」の提案により、幼い頃から見続けている「卑弥呼の夢」を論文にテーマに決めた日向子。教授「天野 照一(あまの しょういち)」協力のもと、日本史最大の謎「卑弥呼と邪馬台国」について研究に取り組むことになる。「この闇深い空白の歴史を、俺と一緒に探求する勇気はあるか?」現実世界に現れる黒い脅威。過去から託された遺産。邪馬台国はどうなったのか? そして、卑弥呼はどこへ消えたのか?日向子の決断は、夢の真相と邪馬台国の謎が直結する壮大な試練の幕開けだった。

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出演:なかむらはるな 妃月洋子 冨家ノリマサ 田邉涼 小森貴仁 岸原柊 伽彩璃 長島翼  渡部陽一 高井俊彦 田中要次 村田雄浩  

原作・脚本・編集:MAGUMA
脚本監修:佐藤マコト
音楽監修:宇津本直紀 / 藤とおる
撮影監督:藤田祐司
音楽:藤とおる / 葉桐新
キャスティング:清月エンターテインメント / Hizu Factory
主題歌・挿入歌:妃月洋子

共同監督:H.A.P

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