筆者の思想

八百万の神

僕はその場所にいるであろう”誰か”に向けて、独り言のように語りかけることがある。

具体的にその誰かが返事をくれたりだとか見えたりだとかはまったくないが、万物すべてに神が宿るという教えに共感する僕は、お世話になる場所にはできるだけ挨拶とお礼を欠かさないように意識している。

不思議なことに、その日に何か「これは嫌だな〜」と思うような障害がありそうな時でも、僕がそれを望まないことを伝えると自然と消えていたりするのだ。それも連続して、だ。

日本には八百万の神がいると聞く。僕らは神社や持ち帰った札などに日々祈りを捧げているが、本当に大事なのは総合的に一つの場所で祈ることではなく、土地土地に宿るさまざまな神様(或いは誰か)に、都度、挨拶やお礼を述べることが重要なのかと思う。要するに、その場所に住まう神(或いは誰か)に味方になってもらうのだ。

人間関係においてもそうだが、敵を作るより味方を増やしたほうが効率がいい。僕には霊感も特別な能力もないが、もしもそういった目に見えない何かが存在するのなら、彼らにとっても同じ原理が通用するはずだ。嫌な奴が来れば嫌な気持ちになるし、良い人間が来れば気持ちの良いもの。助けてやりたい人間なのか、そうでない人間なのかを選ぶ権利は神々にだってある。というよりも、神々であるからこそ持っている権利だ。

多神教が素敵だと思うところは、違いを認め合い受け入れることができる懐の広さだ。

そしてその寛容な心持ちは、次元という境界線をも超えた温情へと繋げることができ、僕らは幸せになるための権利を共に果たすことができるのではないか。と、ここ数日、継続して挨拶とお礼をすることで思考を巡らせている。

祈りと言っても一方的に祈願ばかりするのではなく、近況報告であったりとか挨拶、日々の感謝だけでもいい。家族に「おはよう」と言うように、然るべき挨拶をすればいいと思っている。「僕は敵ではありませんよ」「いつもありがとうございます」。分かり合えるための土台作りをするのだ。

僕が体験した事象は、単なる偶然と一蹴されたら返す言葉もなくなってしまうものだろう。僕自身も、自分の価値観や思想などを他人に強要する気はない。そのため、この手の自分の考えはブログに記事として執筆するか、理解ある知人に共有するかのどちらかだ。

神から人間が作られたのか。人間が神を作り出したのか。どちらが真実かはわからないが、この世界には確実に”言霊”という現象は存在する。言ったことが量子力学的に現実となっていくのなら、神様へ問い続けた人類史から察するに、僕らが敬愛する八百万の神も存在している可能性も大いにあるだろう。ただ、無闇矢鱈と声をかけて周るのは危険なので、やはり環境選びにも注意したいところだ。

プライベートでも、創作作品でも、いつもそばにいる”誰か”に向けて、快いメッセージを発信できたらと思う今日この頃だ。

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