昔ほど顕著ではないものの、差別的な狭い人間の心は何も変わっていない。変わったのはテクノロジーの進化くらいであり、それらの多くは人間的な本質をいいように飾って隠すための発展ばかりである。
欲に忠実に生きることが人間の本能だ。そこに思考という多種族より異常に進化した脳みそが加わり、群集心理やさまざまな要因が折り重なった挙句。複雑に絡み合うことによって混乱を招き、病んで苦しみ記憶と戦い続けることになった。一度戦いの世界に身を投じたら最後。僕らは心理的に、後に引くことができなくなってしまう。負けると分かりきっている戦いであっても、導火線についた火を止めることはもう叶わない。気がついた時には、火はダイナマイトスレスレのところまで迫ってきていて、ようやっと止めようと動き出すも間に合わず爆発。鬱などの病にかかってしまうわけだ。
どんなに悪質なことであっても、みんながその悪を「正義だ」と謳い続ければ、それは「正しき正義」として成立する。一人でも反対意見を述べる者がいれば、たちまち淘汰されて村八分をくらい、下手をすれば命を取られる。戦時中の日本のように、日本人が日本人の命を奪うという、本末転倒な結果を招くこととなる。
敵だ味方だと激論をしているうちは、僕らはまだまだ狭い心のままなのだ。この世界に境界線などない。人間も動植物も、人種や生態系が違っても、持っているものは平等な価値が宿る命だ。その尊い灯火を消してしまう行為は、皆が崇拝している神を冒涜しているだけではないかと僕は思う。なぜなら、神という柱が本当に存在しているのならば、きっと生命に不要な手出しは行わないはずだからである。日本神話で描かれた神は、所詮は人間の手で記されたものだ。だから古事記や北欧神話の神々は、妙に人間臭い行動をとっているのである。そんな神の名を利用した争いが幾度も繰り返され、その度に尊い命が失われてゆくことがどれほど愚かなことなのか、そろそろ僕らは気が付かなければならない。
本能に忠実に生きる時代は原始時代ですでに終わっている。今の僕らには、少なくとも感情と向き合い、人間の心理を理解して行動できる力が備わっている。知識を呪いだが、裏を返せば恩恵として使うことだってできるはずなのだ。争わず、調和を保ち、末長く幸福に生き続けられる方法。すでに、実行に移している人間は多くいる。だが、まだまだ国やメディアの言うことが真実だと信じ込んでしまっている人間で占められている事実は変わらない。
僕たちは誰のために生きているのだろうか?今一度、自分の人生を俯瞰して、自分はどうしたいのか?どうなりたいのか?を真剣に考える必要があるだろう。そうすれば、命がいかに尊いものなのかを実感できるのではないかと思う。
映画「福田村事件」を鑑賞して、少し考えに耽ったので書き殴った。レビューとは程遠い記事になったため、僕の考えとして記事にしている。気になる方は劇場で。
それでは、また。
2月18日「MAGUMAマンスリーコンサート Vol.2」
場所:yomihana~宿花~
神戸市中央区加納町4-7-26藤嶋ビルB1
時間:開場 17:30 開演 18:00
料金:3500円(1ドリンク代込み)
限定20名様まで。
※コンサート後も宿花でご飲食可能です。
※食べ物のみ持ち込みOK。
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