歴史は、”戦いに勝利した者”たちの伝記である。いかなる動機であろうとも、負けた者の歴史は初めから無かったかのように扱われ、大衆の目や耳に届くことはない。つまり、僕らが義務教育で受けてきた歴史は、勝者たちが作り上げた片翼の物語なのだ。
卑弥呼や邪馬台国、大和政権創立までの時の流れの中にも、”空白の150年”と呼ばれるミッシングリンクが存在する。当時の様子を事細かに記した書物がどこかにあるのかもしれないが、仕組み上、”ないもの”となっているため、決して僕のような一般市民の教養になることはない。
他にも、音楽の起源であったり人類の進化の過程であったりと、この世には明らかにされていない多くの歴史がある。僕らはそんな不確かな真実のもとで社会を構成し、どういうわけか生き繋いでいるわけだ。時折、僕はそんな現実に不気味さを感じ、どうにも気色の悪い感覚に襲われる。
広い括りで世界を捉えることは良いように聞こえるかもしれないが、裏を返せば、広すぎる世界を捉えることによって、前述した勝者の歴史に翻弄されてしまう危険性があると個人的に思う。あくまでも、僕らには一人ひとりに世界があり、思い通りに動かせることを理解しておかなければならない。結局のところ、見えているものだけが個人の世界であり、その世界を見ている自分を信じるしかないからだ。
勝者の歴史。敗者の歴史。以上のような事象をもっと簡単に表現すると、所謂、伝言ゲームだ。
最初に聞いた情報を次の者に伝えていくゲームなのだが、少し解釈を間違えることによって、その間違えた解釈が”真実”として次の相手にバトンを渡されてゆく。最終的にゴールインしたメッセージは、最初とはまったくの異なる意味として形を成してしまうのだ。僕は、歴史という鎖は伝言ゲームと同じように構成されていると思っている。歴史の場合は、ただ間違えて伝えたのではなく、意図的に違う情報を伝えている可能性が高い点が、身の毛もよだつほど恐ろしいのだが。
不確かな中でも、もちろん、確かなものは確実に存在する。それは、幸福というものだ。
僕らは悩み事に対して「なぜ?」を繰り返していくと、最終的には「幸せになりたいから」という結論に達する。みんな幸せになりたい。豊かな心で生きていきたいと願っている。その願望こそ、誰に左右されるでもない確固たる真実ではないだろうか。何も信じられない世の中であっても、せめて自分の本音くらいは信用したい。エゴを取り除いた理想に耳を傾ければ、俗世に塗れた夢とはまた違った、新しい目標ができるかもしれない。僕らが不確かな真実の中で生きていくためには、己の内側に眠る「幸せ」が唯一の希望となるのだ。
世界は、常に自分の手の中にある。
と、何の気なしに思い至って書き殴ってみた。皆様、今日も良い一日を。
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