筆者の活動

卑弥呼はイスラエルの血統だった?古代イスラエル人と邪馬台国の起源とは

前3世紀。朝鮮半島・日本に向かって、イスラエルの血統を受け継ぐ部族たちが大移動を始めた。2700年前。アッシリア人により追放され、忽然と行方がわからなくなった者達を、人々は「イスラエルの失われた十支族」と呼ぶ。彼らはいったい、どこへ消えてしまったのか?

実は、生き延びた彼らは、はるばる東の国へと辿り着き、日本という国の礎を築いていったという話がある。「イスラエルの失われた十士族」は、日本人の祖先だったのではないか?日本のルーツを根底から覆す学説の一つ「日ユ同祖論」は、今も多くの議論が繰り返され続けている。そして、この日ユ同祖論が、卑弥呼と邪馬台国の謎を解き明かす重要な鍵となる可能性があるのだ。

東アジアの歴史の流れを把握することによって、卑弥呼と邪馬台国についての答えがわかる。

今回は、卑弥呼と日ユ同祖論のつながりについて、簡単に解説していこうと思う。

それではしばしの間。私とともに歴史の浪漫の渦へと旅を始めよう。卑弥呼とイスラエルの十支族。邪馬台国の礎へと誘う旅へ。

アジアに離散したイスラエルの民

ルベン族・シメオン族・ダン族・ナフタリ族・ガド族・アシェル族・イッサカル族・セブルン族・マナセ族・エフライム族。

以上は、旧約聖書に記されていたイスラエルの十二支族のうち、痕跡がつかめなくなった十支族の名称である。イスラエルの歴史は、族長のアブラハムがカナンの地を目指して出発したところから物語が始まってゆく。メソポタミアのウルの地から出立し、やがては孫のヤコブの時代にエジプトへと移住を果たすも、やがては子孫の代でエジプト人の奴隷になってしまうという悲惨な末路に辿り着く。

かの有名なモーセが、奴隷となっていた諸部族をエジプトから連れ出したのは、奴隷時代が400年ほど続いた後の話だ。40年間シナイ半島を放浪、定住したのち、約200年を費やして征服を行ったという。

統一イスラエル王国として十二の支族がひとつにされたのは、ダビデ王の時代。しかし、そこでも支族たちは過剰な束縛を強いられていたと言われており、ソロモンの死後、王位についた息子のレハブアムの政治に不満を抱いた民たちは、エジプトへ逃亡していたヤロブアムを呼び戻し減軽を申し出るもあっさりと断られ、挙げ句さらなる苦渋を押し付けられることとなってしまう。ちなみにヤロブアムとは、預言者アヤヒにより「分裂後の十支族の支配者となる」ことを告げられた者のこと。その情報を知った野心家のソロモンが、ヤロブアムの殺害計画立て、それから逃れるためにエジプトに逃れていた。

以上のようなこのことが発端となり、北部に定住していた支族たちはその場から離反。ヤロブアムを王とした北イスラエル王国が誕生する。ここからベニヤミン族の南王国「南ユダ王国」と分裂し、イスラエルは南北に分かれることになっていったのである。

その後の北王国はアッシリアにより滅ぼされ、指導者層は捕虜として連行。北王国滅亡直前の段階の北王国の全人口の約20分の1が捕虜であったとサルゴン王の碑文に記されていたらしいが、その他の行方はどの文書にも記録されていない。南ユダ王国の二支族は、この姿を消した者たちのことを「イスラエルの失われた十支族」と呼ぶようになったのだ。

二支族の南ユダ王国に至っては、新バビロニアに滅ぼされるも、アケメネス朝ペルシアによって解放され、イスラエルに帰還した。しかし、アジア大陸に離散した者の数もかなりいたと推測される。ちなみに、モーセの十戒・マナの壺・アロンの杖が入れられたソロモンの秘宝「契約の箱”アーク”」も、新バビロニアによる滅亡と同時期に行方がわからなくなった。だが、まもなくして、日本でも大きな変化が起こり始めていたという。北イスラエルの崩壊から数十年後、南ユダ王国もまもなく終焉を迎えようとしていた時代。日本では皇族の時代が始まっていたと言われているのだ。南ユダ王国の民と預言者イザヤたちが、契約の箱「アーク」とともに首都エルサレムから姿を消した時期と偶然にも重なっている。

南北に分かれやがて離散したイスラエルの民たちは、敬虔に聖書の教えに従い東へ進み続けた。その結果行き着いた場所こそが、神の山々に恵まれた土地”日本”だったのではないか。卑弥呼と邪馬台国。そしてヤマト王権へと発展する基盤を築いた背景が見え隠れしてきた。祖国を離れ東へ横断したイスラエルの痕跡が、のちのシルクロードへと繋がっているいう考察もあるほどだ。現に、中国にはイスラエルの民が渡り歩いた痕跡が数多く残されている。商人の中にイスラエル人が多かったという話もこれでうなづけるだろう。

卑弥呼という存在も、そんな契約の箱の近くにいた者かその血族だったとするならば、神宝という不思議な霊力を司り、民を先導していたと考えることもできるだろう。

倭国創建に古代イスラエルの民が大きく関わっていたという説は、邪馬台国と卑弥呼の謎に迫るヒントとして、調べてみる価値は十分にありそうだ。

魏志倭人伝と聖書

卑弥呼と邪馬台国。当時の日本「倭国」について記されていたのは、魏国の歴史書「魏志倭人伝」だ。倭人と呼ばれる我らの祖先の生活様式などが事細かく記されてはいるものの、当時の日本の文化を照らし合わせることはそう容易ではない。

しかし、日本人のルーツがイスラエルの血統を継ぐ渡来人であると考えれば、そのヒントは宗教的な部分に絡んでいることが伺える。つまり、空白の歴史に隠されている答えは、聖書の中から読み解けるというのだ。まず、魏志倭人伝で記されている倭人の文化の一部を聖書と照らし合わせてみよう。取り上げた文化は次のとおりだ。

・着物は横幅が有り、ただ結び付けてつなげているだけで、ほとんど縫っていない。
・その土地には牛、馬、虎、豹、羊、カササギがいない。
・倭地は温暖で、冬でも夏でも生野菜を食べている。みな裸足である。
・食飲には、竹を編んだ高坏(たかつき)、木をくりぬいた高坏を用い、手づかみで食べる。

まず、当時の倭人の服装は、古代イスラエル人の服装と非常に酷似している。古代イスラエル人の名残があると言った方が正しいかもしれない。イスラエルの部族たちが日本に移住し、新たな文化が根付いていく数百年の間。出立ちは次第に姿を変えていった。完璧に似ているとまでは言わないが、少なくとも、古代イスラエルの宗教的な背景から受け継いだ姿だと考えられるだろう。

そして、広大な平野があったにも関わらず、魏志倭人伝に出てくる倭人は、家畜を育てていなかったとも書かれている。古代日本において、放牧をしていないという状況は考えにくい。この記述についても、旧約聖書の出エジプト記34章から共通点を見出すことができるようだ。

イスラエルの民は、イザヤの予言書の教えに従って、水源に恵まれた東の島々を目指し「主の神殿の山」を求めていた旅立った。彼らにとっての山は、より神に近づくことができる霊的で神聖な場所である。そして、新天地においても、神宝を守るためには、敵から遠ざけるための高地に集落を築く必要性があったのだ。

以上を踏まえてもう少し踏み込んで調べてみる。すると、「山の麓で放牧をしてはならない」と聖書に明記されていることがわかった。もしも、倭人の祖先が古代イスラエルの民だと考えるのならば、宗教的文化を受け継いで行った結果。神の教えに従い、モーセが登ったシナイ山と同じくらい神聖な山では、家畜を飼育することをタブーとした可能性が高い。邪馬台国に家畜がいないという記述を裏付ける重要な手がかりと言えるだろう。

神宝を守るため、古代イスラエルの民たちは山上国家の礎を築いていった。神の山と崇めるその文化は、山自体を神として崇める三輪山の文化にも通じている。しかも、邪馬台国へとたどり着くまでの陸路と水行を繰り返す経路も、邪馬台国が山上国家であったのなら幾分かうなづける点があるようだ。高地性集落の傾向が多くみられる四国や中国地方に卑弥呼と邪馬台国説があることも、これらの情報から推測されている可能性が非常に高いだろう。昨今話題となっている「邪馬台国阿波説」と密接に繋がっているのかもしれない。もしも四国が、山上国家「邪馬台国」の卑弥呼がいた地として考えるのならば、契約の箱(アーク)が剣山に眠っているという話も納得がいく。幾世にもわたって、神宝は山の奥深くで守られ続けているのだろう。

聖書による比較を続けていると、邪馬台国の倭人たちが裸足で生活していた理由にも似通った点があることがわかった。聖書には「あなたの立っている場所は聖なる地だから、足はから履き物を脱ぎなさい」と書かれた一文があるのだ。邪馬台国が高地性集落による山上国家と捉えるのならば、家畜の放牧と同じくして、聖なる山での履き物も許されないことだったのだろう。だから、邪馬台国の民は裸足だったというのだ。

また、食事を手づかみで行うことについても、古代イスラエル人の食事の文化と同じであることが伺える。ナイフなどの鋭利なものの使用は、祭祀で使うときのみだったようで、そのほか、基本的な食事は手づかみだったようだ。

これらの観点から、邪馬台国の礎はイスラエルの民たちの信心によって構成されてきたことが推測できるようになる。高地性集落は次第に外部から隔絶された山上国家として君臨し、文化、風習の変化も下界より格段に遅くなり、長きにわたって原始的な生活様式が受け継がれていったのかもしれない。その原始的文化を見た使節たちが陳寿に伝えたことで、魏志倭人伝のような倭人のプロフィールが綴られていったのである。

君子国と邪馬台国

古代中国において、遠い東の方には「君子国」「不死国」があると言い伝えられてきた。争いもなく、謙譲に重んじた理想郷。北イスラエル。そして、南ユダ王国の崩壊から数十年後の前6世紀には、中国の孔子が唱えていたとされるその国が、前2〜3世紀からの大規模な民族移動が朝鮮半島から日本へと開始される前に、すでに国家が日本のどこからしらに存在していたというのだ。

おそらく、この君子国・不死国こそ、邪馬台国の礎を築いていった初代小規模国家なのだろう。

朝鮮半島の南下を続け、わざわざ海を渡ってまで東の島を目指したと言われているのは、ユダ族を中心とする南ユダ王国の部族である。その間、海を渡ることなく朝鮮半島に居を構えた北イスラエルの民や、当時の中国地方に属していた諸部族とアジア大陸北方からの移民諸々の混在によって、あらゆる人種の交わりにより、それぞれの国家の形成が行われていった激動の時代。

日本人のルーツが朝鮮だとされる説に一石を投じるのは、以上のようなことから、日本も朝鮮もあらゆる諸部族の混血によって生まれた存在だからだろう。大元のルーツに共通点はあれど、微妙にニュアンスの相違点が生じるのはこのためである。皆、それぞれに違う道を進んだことによって、他の文化と自身の文化が融合し、似ているけれど違う風習へと変化していったものと思われる。

「君子の国」の記述が記されている山海経には、「君子の国」は中国の琅邪(ろうや)から3万里。短里を70mと仮定して、約2.1万kmほど離れていた所に存在していた。つまり、古代中国からかなり離れたところにあったと考えられている。そこで注目されるのは青森県だ。青森には、ユダヤに纏わる伝説が数多く存在する。中でも青森民謡「ナギャドヤラ」や、戸来村(へらい)はヘブライ語ではないかという説がその代表格だろう。

中でも諏訪湖南に位置する守屋山は、初代君子国が存在していた可能性が非常に高いと言われている。なぜなら、守屋山を御神体とした祭祀。縄文文化の痕跡などが根拠として検証されているからだ。遠い昔、イスラエルの理想郷であったエルサレムと似通った山、平地、湖という地形。イスラエル駐日大使やユダヤ系のラビが度々諏訪大社を参拝していることからも、はるか昔からイスラエルがこの地に関わっている可能性は拭いきれない。神がアブラハムに息子イサクを連れてくるよう命じた土地の名も同じく「モリヤ」である時点で、ますます諏訪大社周辺が君子国を築いたイスラエル人の形跡を証明する信ぴょう性を醸し出している。

孔子や戦国時代以前から、君子国は古代イスラエル人の手によって構成されていた。邪馬台国の時代よりもはるかに遡る歴史であるため、どういったつながりがあったかは定かではない。ただ、諸王である大倭王が邪馬台国を収めていた時代。30国の首長が「皆が王と称し、代々系統を伝えている」という記述が後漢書に書かれていたことから察するに、かなり昔からその家系が受け継がれていっていることがわかる。古代イスラエルと君子国、そして邪馬台国を切り離せない理由はこのことからだ。

君子国も邪馬台国も、状況に応じて場所を移動させていたか、もしくは、国づくりの伝道師的な存在がいて、各所に君子国や邪馬台国のような土地が形成されていったという考えも無きにしも非ず。邪馬台国に至っては連合国として成立していたため、すべてが邪馬台国と言われていても何らおかしいことではない。

古代イスラエル民族による国家形成の根拠はまだある。山海経には「衣冠をつけ、剣を帯びて獣肉を食べ、2体の飾りの虎をいつも傍らにおいている」と書かれているが、この二体の飾りの虎とは、おそらく今日における狛犬の走り的な存在のことだろう。つまり、神社のように、守神としてそばに置いていたということだ。中でも「その者の色は黒くとても長生きで、君子国と不死国が共に東方にある」という記述があるが、アブラハムから始まる時代はとても長寿だったらしく、父であるヤコブは140歳も生きたと言われている。山海経に描かれている君子国と不死国についての話は、どうにもイスラエル民族との繋がりが色こく映し出されているように思えてならない。

当初は、東方に居住する異民族のことを「東夷」と呼び忌み嫌ってきた中国。しかしその見識は、秦時代から大きく一変し、いつしか憧れの対象として歴史に刻まれていったようだ。

倭国大乱の謎解き

卑弥呼を女王として共立するまで、倭国は争いで殺伐とした時代が流れていた。倭人たちの生活様式が移住型ではなく定住型となったことで、次第に領土争いが勃発し、リーダー的存在から王に至るまで、一個の大きな組織として機能するようになった。神の言葉を受け、民衆のアドバイザーとして活躍する祭祀王「卑弥呼」の存在は、荒ぶる民の心を沈めるに至る圧倒的な存在感があったのだろう。古代イスラエル人と共に歴史から姿を消した契約の箱とも、何らかの関係性があったのかもしれない。

しかし、倭国大乱という大きな事象においても、方々からの移民の流れを考察することにより、その争いがいかにして起こったのか推測することができる。

古代イスラエルの民が、神の教えをもとに倭国へと訪れ、神聖なる山々に集落を築き、山上国家として居を構えていったという話をしてきた。今日までの日本人の文化や風習。そして、魏志倭人伝に記されている倭人の生活スタイルも、古代イスラエルの民が信仰する宗教的概念から生まれたものだと考察することができる。

だが、東の楽園を求めて日本へ訪れたのは、何もイスラエルの民だけとは限らない。

まず、倭国大乱という大惨事を迎えた主な要因として考えられるのは、当時、大陸からの移民の流入がピークに達していたからではないかという話だ。アジア大陸北方からの民族。中国地方の諸部族や、北イスラエルの失われた十支族等々。時を経て混血し、あらゆる宗教的概念が変化を繰り返して、ようやく日本へと流れ込んできた。その結果どうなるのかは、想像に難しくない。あらゆる文化・風習・宗教が入り乱れ、それぞれに多様な国家を形成されていくにつれ、国内は混沌とした状態に陥っていった。そして、倭国大乱という大きな争いへと発展していったのだ。

中でも、争いに拍車をかけていたと言われているのは、当時最も力をつけていたとされる「秦氏」の存在だろう。

邪馬台国の文化とは別に、独自の宗教感を持つ秦氏も、着々と新たな都の造営を目論んでいた。秦氏についての明確な資料が少ないことも謎の一つだが、深堀してみると高度な経済力を持ち合わせていたことがわかってくる。秦氏でさえ、出自はイスラエルではないかという話がある。そして、のちの日本が誇る文化を残すほど多大なる貢献を成し遂げたという。有名なところで言うと、八幡神社や、エルサレムの都を模範して造営されたという平安京だろう。

以上にように、秦氏のように虎視眈々と地盤を広げていく民も多くなってゆき、倭国大乱という大規模な戦いの火蓋が切って落とされたのだ。

そうした争いと平安の世を繰り返しながら、卑弥呼の死後、トヨと呼ばれる謎の宗女が女王として再び共立され、倭国は平和を取り戻す。こうして、倭国に関する情報は中国の史書からも姿を消し、空白の150年という謎めいた時代に突入するのだ。

終わりに

古代イスラエル人と邪馬台国の起源について解説してみたが、いかがだっただろうか?

日ユ同祖論はとんでも話として扱われがちだが、筋道を辿っていくと意外なほどに共通点や痕跡が残っていることに気がつく。そして、日本のルーツを探る旅は、長い間謎に包まれてきた卑弥呼と邪馬台国の真相についても別の視点からメスを入れることができる新しい切り口ではないだろうか。

引き続き、古代イスラエルの民と卑弥呼。そして邪馬台国創建に至るまでの軌跡を探っていくとしよう。

それでは、本日の記事(動画)はこれまで。

ナレーションは、映画「THE HIMIKO LEGEND OF YAMATAIKOKU」の脚本・編集・監督のMAGUMAがお送り致しました。それではまた、次回の更新をお楽しみに。

それでは、また。

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場所:Hiz'BAR 
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時間:開場 17:30 開演 18:00 
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