noteの創作大賞「エッセイ部門」に応募した内容を、せっかくなのでこちらにも掲載する。
僕が生きてきた中で感じていた「普通」についての想いを赤裸々に綴ってみた。興味のある方は、ぜひ最後まで読み進めてほしい。
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エッセイ「普通じゃない僕の生き方」
僕は普通の人間ではない。しかし、普通ではないことが普通だとするならば、僕は普通の人間だとも言える。
家族やパートナーとの関係も良好だし、ちっぽけな幸せも十分に感じることができる。そう、実に普通だ。にも関わらず、時折「普通」で在らねばならなくなることにどうしようもなく苦痛を抱いてしまう。どうしてこんな「考えても仕方のないこと」を意識してしまうようになったのだろうか? というのが、僕がこのエッセイを執筆するに至った根拠だ。
親に幼い頃の話を聞くと、どうもかなり心配されるような挙動をしていたらしい。
何に対しても一つ遅れて反応をし、言葉も他人と比べて遅かったと言う。確かに周囲から、よく「またボーッとしてる」と言われていた。
学校の終わりの会や生徒同士で議論をする場を設けられても、僕は自分の意見がまったく言えなかった。いや、正しくは、その場では意見がなかったのだ。自分の考えが沸々と湧き上がってくる頃には、事はすでに終了した後。あの時に今の考えが口に出せていたらと、記憶に刻み込まれた議論の言葉の数々が、何度も洪水のように後悔となって押し寄せてきていた。ちなみに、当時の「遅れて反応が現れる」性質は今でも変わっていない。
中学の頃は登校拒否をしていた。勉強についていけなかったことも要因の一つだが、もっとも根本的な理由は「対人関係」だった。
僕には協調性がない。自分の思い通りにならなければ腹が立つし、腹が立つと周りに当たりたくなる衝動にも駆られる(もちろん、我慢はしている)。自分の体内に爆弾を宿していると思うと精神的にも不安定になってしまい、人並みに情緒を保つことも難しかった。
こうして振り返ってみると、自分がいかに普通じゃない人間なのかよくわかる。しかし、あいにくその瞬間を生きている間は「今の自分は普通だ」と強く思い込んでしまっているためどうしようもない。思い込みが錯覚であることに気がつくのも、数時間経ってからだ(ひどい時は数年)。
「その考えは普通とちゃうで」
齢35になる僕は、普通という言葉の連鎖にもみくちゃにされている。
人との会話内容を覚えられないこと。人より勉強が満足にできないこと。部屋の掃除ができないこと。趣味が偏っていること。対人関係が苦手なこと。グリーンピースが嫌いなこと。感情を表に出せないこと。
僕の中で普通だと思っていたことはすべて、社会の常識から逸脱されたものばかり。「僕は内向的な人間です」と言っても、両手を広げて歓迎してくれる組織はどこにもないだろう。35年をかけて学んできた「普通」は、社会不適合者というレッテルを貼られ、今もなお目に見えない指名手配書となって町中至る所に散りばめられている。見つかるや否や「あ、あの人、普通じゃない人だ」と指を刺されて笑いものにされ、距離を置かれ、迫害される始末だ。
漏れなく行き渡るという意味の「普く」と、広く通用する状態の「通」を合体させて、「普通」という概念が出来上がった。それから何かにつけて「普通」と付け加えて押し通すことが「普通」となっていき、僕は強いられる「普通」の波に流され、時に抗って生きてきた。
普通という思想は、単に僕のような人間の肩身を狭めてきたわけではない。長い歴史を遡れば、多くの命を奪ってきたこともわかる。
異教徒だからと、いるかどうかもわからない神の言葉を代弁して裁きを下してきた者もいれば、見た目が違うだけで簡単に人を殺めてきた者もいる。しかし、これらは人間特有の行動ではなく、動物界においても多種族との派閥は絶えず行われている。まさに、”レ・ミゼラブル”だ。
物事に完璧が存在しないように、広く通用するという考えも「最低限」にしか成り立たない。要するに限界があり、すべてを守るほどの力がないということだ。
今は多様化によって生きやすい世界になったかのように思われるが、実際はそんなことはない。むしろ、あらゆる方面へのアプローチが可能になったことによって一層複雑さが増してしまったと思っている。おまけに隠れていたものが可視化し、蠢いていた無数の「普通の波」がヘドロとなって、それこそ「普く」ように溢れ出てきたのだ。
自分が普通ではないと受け入れた今だからこそ、僕はあなたに問いたい。
あなたの言う普通は、いったい誰が決めた普通だろうか?
僕は普通を説かれる度に「それはあなたの普通だろう?」と、いつも胸の内でつぶやいている。もしも世の中で普通が共有財産としてまかり通っているのなら、遠の昔に戦争なんてなくなっているはずだ。人を殺す事は普通じゃないと万人が思っていれば至極当たり前のことだからだ。
一方のあなたは、僕よりももっと酷い仕打ちを受けているかもしれない。もう一方のあなたは、陰気な男の度胸のない遠吠えだと受け取るかもしれない。
どの感想も正解であり不正解だ。結果は受け手の気持ち次第で様々な変貌遂げていくカメレオンのようなものだと思っている。つまり、この世界において黒でも白でもない状況こそ普遍的な真実だと言うことだ。
はっきりしない現実なんて明らかに普通ではない。黒でも白でもないのなら、一体なんなのだ? 単純に考えてもスッキリしないのは当然だろう。なぜなら、時代は進化していても、人間の脳のキャパシティはいまだに原始時代のままなのだから。そのために脳内を整理整頓し、精神的ストレスから回避するために無理やり両極端な解を作り出しているのだろう。実に歪だが、仕組み上、普通のことなのだ。
僕の生き方は誇れたものではないし、他人からすればとてもつまらないものだと思う。仕事の候補は狭くなるし、何に対しても一歩引いて他人の課題は決して背負わない。友達も作らないし、愛情を注ぐ大切な存在は家族や恋人だけに絞っている。その分、出会いや人との深い繋がりは得られないが、そんな事は大した問題ではない。「今に在る」自分だと理解することと、認知している「価値あるモノ・存在」を愚かに手放さないことがもっとも大切な事だとわかっているからだ。
僕はこれまで、他人の世界に合わせることで溶け込もうとしてきた。浮気が普通な男性たちに囲まれていた頃は、僕もそういう男になろうとした。酒を飲まなければ面白い人間にはなれないような環境で生きていた頃は、お酒に頼って馬鹿なことを一晩中言うように尽くしてきた。
普通じゃない自分を認めきれなくて、どれだけ黒くても「普通」が成り立っている世界に無理やり馴染もうとしていた。しかし、ニンテンドーSwitchにPlayStationのゲームソフトが入るはずがないように、母体に合わない成分が適合するはずがない。体内に不純物が入ると病気を起こすのと同じだ。他世界の普通をインプットする行為は無惨な誤作動を巻き起こしていく。心の中では「違う」とわかっているのに、「人生が変わるなら」と、藁にもすがる思いで的外れな施策を行い、心身共に朽ち果て、疲弊し切った時にようやく過ちに気が付く。「こんなものは自分ではない」と。
「普通の人間になりたい」。一抹な願いは毒性の強い老廃物へと膨張を続け、まやかしの理想で視界を遮っていた。結果的にどれもなれなかった上に、エゴに溺れた生活は周りからの印象も酷く悪くし、自身のパッケージに傷をつけまくっていたのだ。
本当の自分を受け入れない行為は、意識という免疫力を下げ愚かな決断を下させる。
灯台下暗し。求めていた価値はずっとそばにあったのに、承認欲求が目をくらませていた。自分という価値に気が付くこともなく、普通という言葉に翻弄されて。
今は、「普通じゃないことが普通」の自分を受け入れている。とことん根暗なところも落とし込んでいるが、まだ慣れたものではない。多くの成功者、実業家が言うように、やはり暗い人と関わりたい人などどこにもいないからだ。
自分の性質を理解する度に「僕は仕事をして生きていけるのだろうか?」と不安になってくる。だがその不安が、いつ精神を支配してやろうかとほくそ笑んでいる「エゴ」という存在を刺激する材料となるのを僕は知っている。それだけは絶対に阻止せねばならない。意識は常に正しい判断をもたらすのだから。
原始時代より、人間はコミュニティを形成して生活をしてきた。理由は一人で生きていくには危険が伴っていたからだ。一歩でも間違えればすぐに捕食されていたし、コミュニティの中でも異端児だと知れ渡れば村八分を喰らうか殺されてしまう。現代でも遺伝子レベルで祖先の生き方が根付いているのかもしれないが、今ならある程度一人でも生きていける時代になっている。僕のような人間が過去に存在していたら、確実に息の根を止められていただろう。過去の実例を知れば、自分が現代人でよかったと心底思う。
あなたは、普通じゃないことが普通であることを知らない。正しくは「知ろうとしない」。何故なら、真の普通はとてもつまらないものだからだ。つまらない分、明確で良好で、今でいう「サステナブルな幸福」を感じやすいのだが、人間は欲深い生き物である。体に悪いものほど美味しいように、普通じゃない物事には快楽や刺激が付き纏っている。残念ながら、僕ら種族はそういった欲求に忠実だ。得てして、病や金銭トラブルなどといった不幸を招き入れてしまうのだ。
残念ながら、人の数だけ普通という概念も増えていく。貧乏な親のもとに生まれた子供は貧乏であることが普通だと思い込んで生き続けていくのと同じだ。
僕の綴っているメッセージだって、僕の中にあるちっぽけな世界の一つの思想に過ぎない。ただ、少しでも「普通」という一言に囚われている同じような境遇の人に「気がついてもらい」自身を解放させるに至るきっかけ作ろうと手指を動かしている。
付き合いが悪くたっていい。面白くなくたっていい。ほんの少し、白と黒の境界線の上で調和を保つことができれば御の字なのだ。
グレーゾーンで生きる普通じゃない普通な僕らは、バランスをとることで幸福を得られる生き物だ。「宗教」や「ヴィーガン主義者」がいい例で、彼ら彼女らの受けている教えそのものはまったく悪いものではない。しかし、本質を理解していない者だけが学びを歪曲し、強引に他者へと押し付け矯正しようとしている。偏った思想が相互に悪い影響を及ぼすことは見て明らかだ。悲しきかな、強要することで全体のイメージを悪くしていることを彼ら彼女らはわかっていない。
実はもともと、僕は歌手活動をしていたのだが、イベントでもトップバッターが一番肝心だと学んだ。
トップバッターとは読んで字の如く「一番最初に出演するアーティスト」のことを指している。
僕は「イベント全体のメッセンジャー」がトップバッターの別名だと思っている。つまり、初手を務めるアーティストがイベントのレベルを左右するのだ。
だが、スタートダッシュの本質を理解しているアーティストは少ない。ほとんどがこの役割を避けるか、または文句を言っているのが現実だ。
はなから構成を理解していない者が作ったイベントは、大抵が無名で実力のないアーティストをトップに添え、実力者を後半に置く。最初に「つまらない」と思われてしまったら、お客様は最後に待っている「素晴らしい価値」を目にすることなく帰路についてしまうだろう。
先ほどの宗教とヴィーガン主義者の例で話した内容は、アーティストのトップバッターの本質とまさに合致している。間違ったメッセンジャーを派遣すると、おおもとの顔に泥を塗りかねないことを知らなければならない。
僕が言っている「調和」の本質はここにある。絶対に、他の世界に自分の世界の流儀を持ち込んではならないのだ。
では僕の執筆しているこの文章はどうなのか? 自分の考えを押し付けていることにはならないか? 当然のことながら、誰もがこの疑問に思考を巡らせることだろう。何故なら、それが普通のことだから。
もうお分かりの方もいると思うが、僕はただ自分の人生物語を交えながら考えや思想を整理しているだけで、僕自身に強要する意思はまったくもって存在しない。
小説や映画、漫画であっても、読み手それぞれが感じ、受け取り、実行に移した瞬間に作品の結果となる。結果の形はもちろん様々で、感動に統一感などあるはずがない。それが普通なのだ。数ある作品と同じように、僕の文章を読んで人生が変わるきっかけを得ていただけたらこれ以上に嬉しいことはないが、仮に得られなかったとしても、腹を立てたとしても、この世界においては「普通」のことで、仕方のないことなのだと僕は知っている。もちろん、僕も人間なので批判されれば傷つくが。
幼い頃はゲームに熱中し、友達と遊び、喧嘩し、人並みの少年として生きていた。それが今では、ゲームもろくにできなくなり、友達は片手で数えられるほどに厳選し、喧嘩も避け、確かにそばにある価値にだけ寄り添って生きている。
不思議に思うだろうが、僕は今の状況をとても幸福に感じているのだ。
決して羨ましがられるような生き方はできていないかもしれない。でも、これが普通じゃない僕の普通の生き方なのだ。
歌手としてイベントを中心に全国津々浦々活動をしていたが、心がすり減って休止をすることになった。しかし、暗闇に閉ざされても歌が好きなことに変わりはなかったため、僕は内向的なありのままの自分を受け入れ、なるべく人と接触しないYoutubeを中心に歌う活動に変更することにした。
今度は巡り巡って、歌手仲間の中で「映画を作る」流れになり、僕が脚本を執筆することになった。兼ねてから物語を想像することが癖になっていた僕は、本当に物語を創造する魅力に取り憑かれ、作家としての人生も歩むことになった。
ありのままで生き、普通じゃないことが普通である自分を受け入れることで、自分に合った生活スタイルが徐々に集まり始めたのだ。
波に抗うことだけが答えではなく、時にはとことん流されてみることも大事なのだろう。必ずどこかへ辿り着くし、誰かに救いの手を差し伸べてもらえるかも知れない。
しかしありのままと言っても、最低限の礼儀は忘れてはならない。理想の生き方を手に入れるためには、小さな我慢も必要となってくるだろう。
「ありのまま」と言うと、多くの人が思い浮かぶのは「アナと雪の女王」の名曲「Let it go」だろう。歌だけ聞けば、自分らしく生きる事を最大限に評価する希望溢れる内容だが、映画全体を通して観ると、これは単なる自由を謳歌する歌ではないことがわかるはずだ。
秘めたる力を隠し切ることに限界を感じたエルサは城から逃げ出し、氷を操る特殊能力をすべて解放して、ありのままの姿で生きることを決意する。しかしこの身勝手な行動が、エルサの故郷でもある王国までも氷で覆ってしまったことに気がつく。さらに力の制御が効かなくなったことで、国全体を危機に陥れる大惨事を招くことになるのだ。
つまり、ありのままで生きるにも調和を保つことが必要不可欠だと言うことだ。
「アナと雪の女王」と「Let it go」は「自由と自分勝手を履き違えると大変なことになる」のだと、教訓として残してくれている啓発的な作品なのだ。
地球で生きているのがあなた一人でない以上、他者との距離感を調整することは避けては通れない道だ。だからこそ、親密になる者、そうでない者を慎重に選ばなくてはならない。精神的にも、人が負担なく付き合える人数は多くて10人程度なのだから。
複雑怪奇な鬱陶しい世界において、あなたの思うような「普通」などどこにもない。真の普通は認知できないほどに変幻自在であると僕は捉えている。昨日「普通」だったものが、今日も「普通」であるとは限らないからだ。
僕らは日々、変化を求められている。個人でも、社会でも、地球規模でも多くの変化が進化をもたらすことを、ありとあらゆる形で献献と説かれている。
今の普通から別の普通になることはストレスだろう。しかし、時には普通であることをやめなければならないこともあるのだ。しかし、その先に待っているのは普通じゃない日常ではなく、やはり、普通となる新しい世界だ。
僕は普通の人間じゃない。
話すこともやっていることも、そう易々と理解されないような人間だ。
だがもう一度言おう。「これが僕の普通なのだ」。
僕は僕自身を今後も肯定し続けていくし、あなたの普通も肯定し続けることを誓おう。
だからどうか、この普通じゃない普通の世界で生きることを諦めないでほしい。
来る未来。僕らの望む普通が訪れるその日まで。
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