広告 筆者の思想

水木一郎さんの訃報を受けて

夢には賞味期限がある。

かつて抱いていたはずの情熱的な夢は日を追うごとに腐敗が進行し、やがては見るに耐えない歪曲した存在と化す。放っておいても腐ってしまうし、だからと言って夢中になり過ぎても身を滅ぼしてしまう。それほどまでに夢というものは繊細であり毒気の強いものなのだ。

今回の水木一郎さんの訃報を受けて、夢は一人で成立するものではないことを思い知った。

アニソン界の帝王。その呼び名を獲得するまで、彼は道なき道を仲間と共に開拓し、僕らに指針を示してくれた。「アニソンなんか歌ってるやつだ」と罵られる時代を生き抜いた水木一郎という存在は、根暗な僕にとっては神様のようなものだった。中学時代に登校拒否をしていた僕を「人前で歌えるように」してくれたのは、他でもないアニソンだった。

アニソンに感化されて、歌の道を志したのも水木一郎さんがいたからだった。YAMAHAのボイストレーニング教室にも通った。初めての発表会で披露したのは、水木一郎さんの「キャプテンハーロック」だった。その頃から、時折ステージではキャプテンハーロックをカバーさせていただいている。水木一郎さんへの感謝の想いと、アニソンの痺れるような格好良さを知ってほしいからだった。

2:33から歌が始まります。

いつか一緒に歌いたい

いつか僕の曲を歌ってほしい

いつか同じ土俵で戦いたい

しかし、アニソン文化を築き上げた一人……水木一郎さんが亡くなってしまった今、僕の夢は塵となって消えてしまった。彼の死がきっかけで、夢の賞味期限は自分だけに止まるような話ではないことを思い知った。悩み、葛藤し、うかうかしている間にも時は容赦なく流れていく。そんな当たり前のことをわかっていながらも、当たり前すぎて見過ごしていたことに気が付き、現実という名の鋭利な刃に引き裂かれたような感覚を受けた。

もう、一緒にアニソンを歌うこともできないし、僕のアニソンを聴いていただくことも叶わない。語り合うことも実現しないまま、名も無きアーティストのちっぽけな夢はなくなってしまったのである。

実は、水木一郎さんとは一度会ったことがある。だがそれは、アーティスト「MAGUMA」としてではなく、いち個人「山中まぐま」として大会に出場した時のことだ。

NHK BSプレミアムにて「アニソンのど自慢G」という番組があった。アニソンシンガーを目指す全国各地のシンガーが挑む一大イベントだ。僕はアニソンのど自慢Gにエントリーし、番組として放送される決勝戦の出場権を獲得したのだ。

もちろん、エントリー曲は「キャプテンハーロック」だった。当時の僕は、まだゲスト審査員が誰なのかわからない状態だった。エントリーしたのち、本大会に水木一郎さんが出演されることを聞いた時は度肝を抜かれたものだ。何せ、憧れの人物の前で本人の曲をカバーするのだから、これ以上の幸運と緊張はないだろう。

あの時の体験は、今でも鮮明に覚えている。リハーサルのとき、同じく舞台袖で待機していた水木さんに声をかけられたのだ。どうやら、僕が着用していた衣装が気になったらしい。「どこで買ったの?」かと聞かれ、僕は緊張を振り解きながら全力で答えた。僕の利用していた衣裳屋さんは東京にはなかったため、大変残念そうにされていたのだが、最後に水木さんは「あったら俺が来てる」と一言言い残し、一度会話が終わった。

しかし、程なくしてもう一度声をかけられる。振り返ると、水木さんは着ていたジャケットを脱いでいた。「ちょっとそれ着せてよ」と、僕のコートを羽織らせてほしい旨をストレートに投げかけてきたのだ。もちろん断る理由はない。購入当初から水木さんをイメージしていた白の煌びやかなロングコートは、やはり水木一郎さんが着ても抜群のオーラを発揮させた。

アニソンのど自慢Gで優勝はできなかったが、僕がデビューから愛用していた衣装を、アニソン界の帝王「水木一郎」が着てくれた体験は、何よりも貴重な宝物となったのだ。

「昔の時代に君のような人が現れていたら、きっと今の僕はなかったと思う」

大会にて僕が歌い終えたあとに水木さんからいただいた言葉が蘇る。この言葉が本気なのか違うのかは今となってはわからないが、僕自身、とても感動したことは事実だった。激励であると同時に、「でも実際に君は過去にいなかったから、僕が負けることはないけどね」という、帝王であるが故の威厳と隠されたメッセージも受け取れた。あくまでも憶測に過ぎないが。

その後もInstagramでご本人のアカウントから直接いいねをもらったりしたが(現在、SNSはすべてやめている)いいねを最後に水木一郎さんとの関連性は無くなっていった。

今度は必ず、同じ土俵の上に上がるんだ。

そう心に誓っていたのだが、どうやら遅すぎたようだ。だからと言って活動をすべて止めるわけではないが、いなくなってしまったことによる喪失感は拭えない。しかし、まだ希望はあった。水木一郎さんに酬いるもう一つの方法だ。僕には歌手としてではなく、作家としてどうしてもやりたいことがあったのだ。

水木一郎さんの伝記映画の制作だ。僕は、水木一郎さんの伝記映画の脚本を書きたい。

本当はご本人にも出演いただきたかったのだが、僕は脚本家として、彼の波乱と栄光の人生を伝記映画に収め、追悼と感謝の意を込めて世界中に発信したいのだ。これが唯一僕に残された叶えられる夢だし、作家として活動を始めた僕の最大の貢献だ。

海外にも著名人の伝記映画はたくさんある。日本でやるなら、間違いなく「水木一郎」だ。各国に根強いファンがたくさんいるのだから、きっと誰もが彼の歩んだ物語を知りたがるだろう。

アニソンによって多くの勇気を与えてきた彼のように、僕も自分の綴る物語で社会へ貢献したい。そのためにも、今日までに学んだ教訓を生かし続けていかなければならない。夢には賞味期限がある。それは自分自身の期限だけでなく、これから出会う仲間一人ひとりにも存在する有限なる価値だ。だからこそ、止まってばかりじゃいられない。この世に待ってくれるものはそうそうないのだから。

僕は作家としてはもちろん、これからもアニメソングは歌い続けていく。アニソンには人を奮い立たせてくれる素晴らしい魔法があるのだ。人前で歌う機会はめっきり減ってしまったが、Youtubeでもまたカバーを公開していこうと思う。本人にはなれないが、本人の力を借りて受け継いでいくことはできるはずだ。僕らに落ち込んでる暇はないのだ。

悲しみはいつか新たな花を芽吹かせる幸福の雨に変わる。そして雨の後は必ず太陽が顔をのぞかせ、光いっぱい僕らに降り注いでくれる。上を向いて歩こう。胸を張って歩こう。先人たちの築いてくれた栄光の道を整備しながら、未知への領域も開拓していこう。

想いが募って支離滅裂な文章となってしまい申し訳ない。また折を見て修正していく。

まずは粛粛と、旅立った魂を送り出そう。僕らの旅はそれからでも遅くはない。

-筆者の思想
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